<<「欲張り躾:しつけ」 01>>
 
「犬の躾トレイニング」に異常に偏執する人がいる。
そういう傾向の飼主は、意外に多いようである。
なんで犬に完全を求めるのか、実に不思議である。
何事も「程度問題!」だと思うのだが、
その「程度」を考えずに、「完全」を求めようとする。
 
そういう人たちに言いたい。
まず、自分自身を振り返ってみて欲しい。
「自分は、どうなのか?」と。
自分に苦手なものは無いのか?
自分に嫌いなものは無いのか?
自分はなんでもできるのか?
自分にできないことは無いのか?
自分は全てを克服できるのか?
自分は誰とでも完全に協調できるのか?
 
犬にはそれぞれに個性がある。
百花繚乱の個性であり、それぞれが唯一無二である。
個性は能力と繋がり、表現と繋がっている。
画一的な完全を求めるということは、
その能力を塞ぎ、その表現を塞ぐということである。
だから「程度問題」を考える必要があるのだ。
犬に「社会性?」を求めるにせよ、
個性を鑑みた上での「程度!」を考えるべきなのだ。
そこには「ほどほどのライン」というものがあるのだ。
その「ほどほど」を無視して完全を求めれば、いつか必ず破綻する。
その能力を殺し、表現を殺し、個性を殺すことになる。
そしてもちろん、その犬との対話など成立しない。
そこには真の対話も真の絆も成立しないのである。
ただ強圧的に犬を操縦しているだけに過ぎないのだ。
 
その重大な「程度!」とか「ほどほど!」を、
それを見極められない人が多いようである。
それは極めて重大なのに、苦手な飼主が多いようである。
それは「感覚領域」なのだが、
その「感覚領域」が社会で軽視されてきたからだろう。
全てを定型マニュアルで解決しようとしても、
それは最初から無理で無謀な話である。
ましてや相手は「命!」である。
「命!」なのだから、どこまでも感覚領域なのである。
 
やたらと「社会化!」と叫ぶ飼主もいるが、
そもそも「社会化」とは何なのか?
その人の描く社会化とは、どんな社会化なのか?
そもそも犬と人間は異なる種族である。
本能も習性も価値観も世界観も掟も違う。
だからこそ「犬」と「人間」なのである。
人間がそれを無視すれば、犬は「犬」でいられなくなる。
犬は「犬」であることを否定されることになる。
犬は「犬という命」を捨てなければならなくなる。
そもそも、著しく「程度」を無視して、
犬を人間社会に組み込む必然があるのか?
それを「共生」とは呼ばないはずである。
社会は「共生!共生!」と叫ぶが、
「地球の仲間たちと共生だ!」と叫ぶが、
そんなことでは「共生!」など永遠に無理だろう。
最も身近な「犬」とさえ共生できなければ、
他の異種族たちとの共生など夢のまた夢である。
 
人間は欲張りである。
程度を知らない。ほどほどを知らない。
いつも際限なくエスカレートする。
相手の異種族に要求する前に、
まずは自分を深く見つめてみるべきである。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:03:31 ≫