<< 異 種 愛 >>
 
我が家族の犬たちは、
私が犬ではないことを知っている。
彼らはそれを知っているが、それを微塵も気にしない。
彼らはそれに囚われず、それを軽軽と超えていく。
彼らは軽軽と、種の違いを超えていく。
 
私がもし「犬としてのボス」だったら、
私はすぐに「ボス失格」になるだろう。
「犬としてのボス」だったら、
もっともっと厳しく過酷な条件となるだろう。
だが犬たちは、私をそのような立場には見ていない。
「種族は違うけど、本物の父さんなんだ!」と見ている。
「父さんは犬のボスではないけど、だけど父さんなんだ!」
「父さんが大好きだから、父さんの言葉を聴くんだ!」
・・・・・ 犬たちは、そのように想っている。・・・・・
 
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もしそれが「狼」だったなら、
もちろん私は「狼のボス」にはなれない。
そもそも狼は、私を「狼」などとは見ていなかった。
もし狼が私を「狼」と見たなら、
私は無事ではいられなかっただろう。
狼は最初から種族の違いを知っていたのだ。
「種族は違うけど、本物の父さんなんだ!」と見てくれたのだ。
だから大らかに、いろんなことを赦してくれたのだ。
私が「狼の掟」をよく知らなくても、大らかに赦してくれたのだ。
「狼のボス」が、どれほど途方も無い存在か、私には分かる。
狼の精神力は凄い。次元が違うとしか言いようがない。
狼のボスになるなど、考えもつかないことである。
 
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<<北方狼:極大型:剥製:黙祷>>
 
ところで世界の狼研究者の中には、
「狼のボス」を自認する人もいるようだが、
それは大きな勘違いだと思う。
狼たちはその人が人間だと知っているのだ。
人間だと知った上で慕ってくれているのだ。
だからその人は「大らかに赦されている」状態なのである。
もし雄狼が「アタック」の真似をしたからといって、
それはあくまでも「本気の攻撃とは違う」のである。
それはその人の胆力を試すための演技のようなものだ。
悪気や魂胆があって「胆力を試す」わけではない。
それは彼らの本能的な流儀だと言えるだろう。
≪理不尽な仕打ちに対しての「攻撃」は別物となる≫
ただしその時にその人が、
あまりに無様な臆病姿を露呈してしまったら、
雄狼はその人に幻滅を抱くかも知れない。
というか「????」と感じるだろう。
あるいはその人が雄狼の演技を知らずに、
自分の腕力が通用したと思い込んで高慢になったら、
それもまた雄狼にとっては「????」であろう。
つまりは「どこまで自然体でいられるか」である。
雄狼は本能で、それを見ているのである。
「自然体でいるための胆力があるか?」を見ているのだ。
アラスカの森林レンジャーの話では、
ヒグマもボス狼に一目置くと言う。
ボス狼の気迫は、それほどに凄いと言う。
狼は野生界で人間の何十倍も強力な強者と対峙する。
狼の本気の一撃の前では、人間は人形も同然である。
その狼が、非力で脆弱な人間を立ててくれたとしたなら、
それに対して、ただただ感謝である。
狼の異種愛に対して、ただただ尊敬である。
 
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 <<1997>>
 
我家では、狼と犬たちが一緒に家族だった。
犬たちは、狼が「狼」だと知っていた。
狼の底力を、本能で察知していた。
狼も、犬たちが「犬たち」だと知っていた。
犬たちの非力を、本能で察知していた。
彼らは互いに知っていながら家族だったのだ。
互いに種族の違いを知りながら家族になったのだ。
そして私は犬でも狼でもなかった。
犬でも狼でもなかったが、
みんなが私を父と慕ってくれた。
みんなが私の言葉を聴いてくれた。
29年に亘る野性対話道で、彼らの異種愛を知った。
彼らの偉大な異種愛に、ただただ感謝している。
彼らの偉大な異種愛を、心の底から尊敬している。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:03:27 ≫