<< 盲 導 犬 >>
盲導犬は、菩薩である。
自分の生涯の全てを他者に尽くす。
24時間365日何年も何年も何年も。
本来の「犬」としての本能を自ら殺して。
本来の「犬」としての習性を自ら殺して。
本来の「犬」としての表現を自ら殺して。
自らの心の表現を殺してまで、
盲導犬は他者に尽くすのである。
私は本来の「犬」の姿を知っている。
犬たちの本来の「表現」を知っている。
だから盲導犬が己を殺していることが分かる。
だから盲導犬が如何に他者に尽くしているかが分かる。
世間の人人は盲導犬をどう見ているだろうか。
もしかして「お利口な犬」・・程度の認識だろうか?
あるいは「だけど所詮は犬コロだよな」・・だろうか?
あるいは「人間福祉のための便利な道具」なのだろうか?
盲導犬は「人間が幸福になるための道具」に過ぎないのか?
「その道具をどう使おうと人間の勝手」という認識だろうか?
つまりは「道具なのだから感情移入も程ほどに」・・だろうか?
もし世間の大多数がそういう認識だとすれば怖ろしい。
それではまるで「支配者」の意識そのものである。
世間の人人もまた、怖ろしい支配者ということか。
自分を封印して他者に尽くすなど、
ほとんどの人間ができないことである。
稀にそういう人もいるだろうが、
人間の場合には「理解者」が現われる。
やがて周囲から讃えられ、共感者が仲間となっていく。
だが盲導犬は、どこまでも孤独な闘いである。
一歩外に出れば、味方は誰一人いないと言っていい。
盲導犬の胸中を知る人は滅多にいないと言っていい。
どこまでも自分ひとりで主人を護らねばならないのだ。
しかも、どこまでも無抵抗主義を徹底しながら護るのだ。
電車の中で硬い靴底で足を踏まれても悲鳴も我慢する。
犬嫌いの人間から蹴飛ばされても抗議さえ許されない。
とことん無抵抗のままに主人を護らねばならないのだ。
あるいは自らが盾になって主人を護らねばならないのだ。
それがどれほど孤独な使命か。
それがどれほど至難の使命か。
だが盲導犬は、勇気を振り絞って使命を果たす。
どんなに不安でも、どんなに孤独でも、使命から逃げない。
はたして人間に、同じことができるだろうか?
人間は、同じように耐えられるだろうか?
しかも盲導犬には「給料」は無い。
盲導犬は、報酬を目当てに生きてはいないのだ。
どこまでもとことん無償の愛のままに生きるのだ。
地位も名誉も賞賛も求めずに、ただ無償の愛を貫くのだ。
盲導犬の唯一の心の励みは、
ただただ主人との「絆」である。
だがもし主人から「絆」を否定されれば、
もはや絶望の淵で使命に向かう毎日となる。
それがどれほど悲しい毎日か、人人は知るだろうか。
それでも盲導犬は、それに耐えるのである。
盲導犬は、菩薩である。
そこに菩薩の姿を観る人はいるだろうか。
世間では人間愛を謳う人は多い。
人間愛を賛美する人は多い。
だが人間世界だけに目を奪われていると、
この世の真相を知ることはできない。
人間世界の枠を超えた視座でなければ、
偉大な愛を知ることはできないのだ。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:03:22 ≫