<< 仏 教 観 >>
 
宗教と言う言葉の解釈は、
人それぞれに実にさまざまである。
人によって宗教観が全く違うものとなる。
宗教を怖れる人も多い。嫌悪する人も多い。
無宗教こそが真の文明だと信じる人も多い。
とりわけ今の日本は敬虔心が希薄のようだから、
宗教を敬遠する人が多いように感じる。
多くの人が猜疑の目で宗教を見る。
多くの人が宗教は不要だと思っているようだ。
人人から見れば仏教も宗教に入るだろうが、
人人は仏教もまた不要だと思っているのだろうか。
 
他宗を排撃する宗教は宗教では無い。
それは「人間教」である。
信者を利用する宗教は宗教では無い。
それは「人間教」である。
「御利益」ばかりを謳う宗教は宗教では無い。
それは「人間教」である。
「幸せ探し」ばかりを謳う宗教は宗教では無い。
それは「人間教」である。
人間の社会だけを考える宗教は宗教では無い。
それはまさに「人間教」である。
人間の権利だけを求める宗教は宗教では無い。
それはまさに「人間教」である。
<<<・・私はこのように思っている・・>>>
だが実際には、そのような様相を呈する宗教団体も多い。
世間はつまり、そのようなものを宗教だと思い込んでいる。
それは宗教では無いのに、それが宗教だと思い込んでいる。
だがもしかしたら、それが人間にとっての宗教なのか?
もしそれが人間にとっての宗教だとしたなら、
私が学ぶ仏教は「宗教」では無いことになる。
私が知る仏教は世間が言う「宗教」とは全く異なる。
仏教は叡智の塊りである。
宗教と言うよりも叡智そのものである。
それは人間の思考レベルをはるかに超えている。
宗教と言うよりも叡智として見たらどうだろうか。
そうすれば仏教の本領を垣間見れるはずだ。
そして叡智が「深秘」であることを感じるはずだ。
 
仏教は光り輝く「羅針盤」である。
人間には羅針盤が必要なのである。
人間は倫理道徳だけではどうにもならない。
法律もまた人間の姿勢を導くことはできない。
法律はただの「抑止力」に過ぎないのである。
それほどまでに人間の「傾向性」というのは強烈である。
その強烈な傾向性を鎮めて調和を目指すには羅針盤が必要だ。
人間の思考レベルを超えた領域の羅針盤が必要なのだ。
人間の思考レベルでは羅針盤には役不足なのである。
仏教が人間の思考レベルならば、仏教の意義は無いのだ。
人間の思考レベルを超えているからこそ羅針盤になれるのだ。
 
仏教には「信仰」と言う言葉は当てはまるだろうか。
なぜならそれは宇宙の真相であり、信仰以前の話だからだ。
だがそこには不可思議な深秘が隠されている。
それはもはや理屈を超えた領域に突き抜ける。
その深秘を実感するには「敬虔心」が求められる。
そこに敬虔心が無ければ深秘を実感できないだろう。
その敬虔心を信仰心と呼んでもいいかも知れない。
不可思議な深秘に心打たれたとき、
不可思議な深秘を心の底からリスペクトする。
思わず両手を合わさずにはおれなくなる。
不可思議な深秘を真に信じたいと思ったとき、
思わず両手を合わさずにはおれなくなる。
その「湧きあがる想い」こそが信仰心だと思う。
 
ところで仏教は「科学」と対極だと思う人が多いだろう。
仏教が「非科学」の最たるものだと思う人が多いだろう。
科学と仏教は相容れない領域だと思う人が多いだろう。
それは全くの誤認識である。
仏教は科学を包含しているのである。
仏教は科学の方向性を導く使命を持つのである。
方向性を失えば科学は暴走するのである。
その暴走を食い止めて調和に導いていくのが仏教である。
 
世界の一流の科学者の中には、
仏教の凄さに気づく人も多いようだ。
仏教からヒントを得て理論を発想した科学者もいる。
特に近年の宇宙物理学は華厳仏教に注目しているようだ。
科学者は華厳の宇宙観にインスパイアされるようである。
一途に真摯に道を究める人は、この世の「深秘」を感じることになる。
素直に自然体で深秘を受け入れるようになる。
仏教に感銘した科学者たちの言葉を、少しだけ紹介してみる。
 
≪湯川秀樹博士:ノーベル賞科学者≫
「科学が全てであると思っている人は、科学者として未熟である」
≪末綱恕一先生:東大数学者:「三平方の定理」の名付け親≫
「科学技術の進歩を方向付けることができるのは仏教だろう」
「この貴重な仏教を、滅亡させてはならない」
≪ジェフリー・チュー:宇宙物理学者≫
「仏教は非科学的概念だと思い込んでいた」
「だが今では、仏教を畏怖している」
<<チュー博士:ブーツストラップ宇宙理論>>
宇宙は部品の集合ではなく、
あらゆる部分が他の部分と相互依存している。
あらゆるそれぞれが、互いに映し合っている。
それは超ダイナミックな巨大織物である。
部分は全体であり、全体は部分である。
・・・博士の理論は、まるで華厳宇宙観である・・・
≪デビット・ボーム:理論物理学者≫
<<ホログラフィー宇宙モデル:「たたみ込み」理論>>
見える宇宙の背後に見えない宇宙がある。
見える宇宙と見えない宇宙は不可分である。
全てが時空間を超えて「たたみ込まれて」いる。
部分は全体であり、全体は部分である。
・・・博士の理論も、まるで華厳宇宙観である・・・
 
<<< 華厳経インドラネット >>>
宇宙は巨大な網の織物である。
それぞれの結び目に鏡の宝珠があり、
無限にそれぞれを映し合っている。
ひとつの宝珠が鈴のように鳴り響けば、
それに応えるように全ての宝珠が共鳴する。
そうして鈴の音は次次と鳴り響き、
宇宙に壮大なシンフォニーが奏でられる。
それぞれの鈴の音は、どれも微妙に違う。
微妙に違うからこそ、美しいシンフォニーになる。
それぞれの音色が、シンフォニーそのものである。
そのシンフォニーには、全ての音色が刻まれている。
それぞれの宝珠が宇宙そのものであり、
宇宙はそれぞれの宝珠そのものである。
宇宙は「集合」とは全く違う。
あらゆるそれぞれが相互関係している。
あらゆるそれぞれが互いに映し合っている。
あらゆるそれぞれが、それぞれに宇宙である。
宇宙は、あらゆるそれぞれに映り込んでいる。
あらゆるそれぞれの重大さは、どこまでも同等である。
あらゆるそれぞれの個性は、どこまでも同等に重大である。
あらゆるそれぞれが、かけがえのないそれぞれである。
<<< 極大極微 相即即入 極微極大 円融無限 >>>
そして華厳は、その宇宙観のさらに深奥を説くのである。
 
宇宙は進化を目指していると感じる。
一瞬一瞬にそれを目指していると感じる。
全ては無常だから、
一瞬一瞬に変化するのは当然だが、
それは進化を目指した変化だと感じるのだ。
あらゆる現象が進化への道程だと感じるのだ。
一瞬一瞬に新たな領域に踏み込んでいくのだ。
本来なら人間もまた然りである。
人間も宇宙なのだから、それが当然である。
人間の進化とは何か?
それは心の進化に他ならないはずだ。
大いなる愛を目指すのが人間の進化だと思う。
それを目指し続けるのが人間の使命だと思う。
生きるためには物質文明も必要だと思うが、
それだけで終われば、何の意味も無い。
進化の使命は放棄されたということになる。
そうなれば大宇宙の意志と訣別した迷子である。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:02:11 ≫