<< 野 性 観 >>
 
日本の「野性の解釈」は幼稚だと感じる。
日本の「野性に憧れる人たち」は、
野性を「ただ荒荒しいもの」、
「ただ原始的なもの」、
「ただ弱肉強食の世界」、
「ただ食って生き延びる世界」、
「ただ生態系調整のシステム」、
そのように思い込んでいると感じてならない。
だがそれは、野性の表層に過ぎない。
人人は表層だけを見て野性に憧れる。
それまで野性と無縁の生活だった人が、
その表層だけに憧れて野性を誤解していく。
表層だけを真似した生活を自慢し始める。
「自分は野性人だ!」と思い込んでいく。
特に「インテリ」と呼ばれる人にその傾向が強いようだ。
野性と無縁だったインテリが野性を誤解していく。
そして誤った概念を世の中に発信していく。
そして世間の人人も、それに感化されていく。
今の日本は、そういうケースが非常に多いようだ。
野性に隠された奥の奥。
野性に隠された、深奥の精神世界。
その精神世界に気づく人が少ないようである。
知るどころか、知ろうともしないようである。
表層の現象だけを見るだけでは、野性は分からない。
深奥世界に入らなければ、野性を知ることはできない。
それなのに人人は、その深奥を信じようともしないのだ。
 
表層だけに憧れる人は「自活?」を自慢する。
たとえば「狩猟?」を自慢する場合も多い。
「自分で殺して自分で捌いて自分で食う」ことを自慢する。
そしてそういう人たちは「動物擁護」をあざ笑う。
動物の尊厳を尊ぶことを「偽善!」だとあざ笑う。
動物擁護者を「偽善者!」だとあざ笑う。
山野に「獲物」が居なくなることに腹を立てても、
「動物の尊厳」に関しては非常に薄情なのである。
「生態系のバランス」を理屈で強調するが、
「一頭の野性のドラマ」には非常に無関心である。
そういう「インテリ」が日本に多くなったと感じる。
「自活?」を自慢する人は、
よく「命のやりとり!」という言葉を使う。
どこが「命のやりとり!」なのか?
「命のやりとり!」というのは、そんな浅薄なものなのか?
自分が安全圏に居ながら、どこが「命のやりとり!」なのか?
最初から自分が有利な立場で居ながら、
いったいどこが「命のやりとり!」なのか?
散弾銃を手にして何が「命のやりとり!」か?
単弾村田銃ならまだしも、卑怯極まる散弾銃とは!!
散弾銃は、殺すというよりも手段を選ばぬ身体破壊である。
そこには「命を貰う美学」など微塵も無いのである。
あるいは卑怯極まる「くくり罠」で相手の足を捕える。
足を捕えられた動物がどういう心境になるのか?
そこから逃れようと、どれほど必死にもがき続けるか?
そういう状況を知っていながら罠猟を自慢しているのか?
動けぬ相手を撲殺することが「命のやりとり!」なのか?
難関大学を出たインテリが、
この「くくり罠」の猟生活を自慢した本を出している。
難関大学を出ながら猟師になったという「謳い文句」である。
著者は自分が「命のやりとり!」の実践者だと自慢している。
いったいどこに「命のやりとり!」があるのか?
動けぬ相手を撲殺することが「命のやりとり!」か?
そして著者は自分が「感謝して食っている!」と自慢する。
いったいどこに本気の「感謝!」があるのか?
感謝!とは、そこまで薄っぺらなものなのか?
感謝!と口にすれば卑怯猟も肯定されるのか?
そして多くの人人がそれに共感して拍手を送っている。
それが「野性生活」だと勘違いして喝采を送っている。
今の日本は、こういう人たちが非常に多いようである。
自分は共生を謳いながら、動物擁護を敵視する。
自分は共生を自慢しながら、反動物擁護に同調する。
反動物擁護者と結託して、動物擁護者を攻撃する。
そういう人たちも非常に多いようである。
そういう「自称ナチュラリスト」に強い違和感を感じる。
そういう人たちの気配は、直観で即座に分かる。
そこに隠された裏腹な魂胆を強烈に感じるのだ。
そこに隠された根本的な薄情を強烈に感じるのだ。
日本ではそういう人たちが世間を扇動している。
そして世間の人人も、それに感化されていく。
野性界にとって、それは重大問題である。
 
ところで「鹿による森林破壊」を強調する人たちが、
「外国狼を日本に移入して生態系を復活させる」
「狼に鹿を捕食させて鹿の生息数を抑えていく」
「それによって鹿による食害を防いでいく」
というアイデアを実行しようと躍起になっているようだ。
今の日本で狼を山野に放てば、どういうことになるか?
そんなことは最初から、火を見るよりも明らかである。
いずれ狼は、必ず厄介者扱いされるようになる。
いずれ狼は、必ず人間から迫害されるようになる。
山で「野犬」を見かけただけで人人は「通報」するのだ。
無力な小熊が人里を彷徨っただけで「駆除」を要請するのだ。
山獣たちの苦境に一切同情せず、微塵も抗議を許さない。
抗議を許さないどころか、人里に降りただけで「害獣!」と叫ぶ。
人人は「人権!人権!安全生活!安全生活!」と叫んでいる。
今の日本の世間は、そういう人人が圧倒的大多数なのだ。
「狼移入プロジェクト」の人たちは、
まず第一に、そういう世間感情をどうにかできるのか?
そういう世間感情をどうにかできずに、なんで狼移入か?
最初から「狼たちの犠牲」を計算に入れているということか?
「多少の犠牲はしょうがないでしょう」ということなのか?
いずれ狼の犠牲は起こり得ることが分かっていながら、
それでなんで「狼を愛する者」を標榜しているのか?
それでなんで「狼の野性の理解者」を標榜するのか?
そういう計画を発想するならば、
まずは今の日本の世間感情をどうにかしてからだ。
山獣に対する人人の感情をどうにかできたら、
そこでやっとそういう計画を発想するのが順番である。
ところが計画の人人は苦境の山獣の境遇には無関心である。
ひたすら自分たちのプロジェクトの実現だけに執心している。
自分の「研究」を世に認めさせたいということか?
どうしても研究者として名を馳せたいのか?
あるいは研究者としての地位を高めたいのか?
そういう印象を受けるが、実際のところはどうなのか?
もし仮にそのプロジェクトが実行され、
もし狼が一頭でも人間から迫害を受けた日には、
その計画者たちはどうやって詫びるつもりなのか?
「どうやって狼に詫びるのか?」ということである。
生半可な詫びなど通用しないことを覚えておくべきだ。
野性界は、生半可な詫びなど認めないだろう。
計画者たちは「生態系!」と強調する。
だがただ「生態系!生態系!」と叫んだところで、
世間の感情は一向に進化していかないだろう。
むしろ冷酷な「生態系管理思想」に染まっていくだけだろう。
だがその思想では、根本から遠ざかるばかりである。
その思想では、生態系も大自然も回復しないだろう。
 
野性は全身全霊のスピリットである。
野性とは命の心の物語のことである。
命に隠された壮大なドラマのことである。
一頭一頭の命に偉大なドラマが隠されているのだ。
大自然は、命たちのドラマによって成り立ってきた。
一頭一頭の命のドラマが、すなわち大自然である。
大自然は、命たちそのものなのである。
WILDERNESS。それは大自然の心の世界。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:01:18 ≫