<< 寄付とは何か?>>
それが営利活動でない有意義活動を存続させるには、
「寄付」という形の援護を受けなければならないだろう。
たとえば「動物救護組織」もそうだろう。
世間の共感者が彼らの活動を寄付で助け、
そして彼らは存分に活動して動物を助ける。
そして動物が助かれば、共感者たちも嬉しくなる。
実にシンプルな構図である。
活動者自身に潤沢な資金が余っていれば、
もちろん寄付を募らずとも活動できる。
ペコペコせずに胸を張って活動できる。
だが現実には活動者に金を稼ぐ手段は無い。
救護と救護動物の世話で手一杯の毎日である。
だから共感者たちが寄付して後方支援する。
現地活動できない人が現地活動できる人を支援して、
結局は自分もその活動に参加することになる。
「救護したい!」という目的を達成することになる。
実にシンプルな構図である。
実にシンプルな構図なのに、
そこに「寄付」という一文字が出た途端に、
人人は身構え、いろいろと詮索し始める。
「寄付」を色眼鏡で見る習慣があるようなのだ。
「本物」を見極める自信が無いからだろう。
自分の直観に、よほど自信が無いのだろう。
もちろん「非営利有意義活動」と言っても、
最初からそれを鵜呑みにすることはできないだろう。
なにしろ世間にはそういう謳い文句が溢れている。
謳い文句と活動のギャップが大きい場合もあるだろう。
中には人人の人情を逆手に取る悪質募金もあるだろう。
だがそんなものは、相手の言動や行動で判断できるだろう。
深く集中して注視傾聴すれば、自ずと直観で気付くはずだ。
もし動物を愛する人ならば、それくらいの直観はあるはずだ。
そして自分の直観で信じた以上は、相手に賭ける。
寄付とはつまり、「賭ける」ことである。
これは「想いを託す!」という意味である。
その活動者の信念に賭け、その活動に賭ける。
なにしろ共感者は自分では活動できないのだから、
活動できる人に「賭ける」しかないのである。
それに賭け、そして動物たちを救護していく。
共感者と活動者が一体となって救護するのである。
問題はどこまでも、「活動そのもの」である。
その活動が賭けるに値する活動であるか?である。
その活動者の覚悟がどこまで本気か?である。
ただただ、どこまで本気で活動しているか?である。
重大なのは、ただそれだけである。
実にシンプルな構図である。
たとえば人人は、いろんなことに金を使う。
好きな本を買ったり、好きな音楽CDを買ったり、
好きな服や好きなアクセサリーを買ったり。
そのように、いろんなことに金を使う。
自分が価値を見出したものに対して対価を払うのだ。
それと同じように、「活動への価値」が生まれてもいいのだ。
活動に対して価値を認める人は、活動自体に対価を払う。
たまたまそれを、「寄付」と呼ぶのである。
その活動に価値を見出したならば、
それに対して「寄付」という対価を払うのである。
好きな音楽に共感するように「活動」に共感する。
好きな音楽に対価を払うように「活動」に対価を払う。
これは実にまっとうな話である。
胡散臭さなどどこにも無いのである。
その人が「価値を認めるか?」だけの問題である。
他人がどうこう口出しする問題では無いのである。
その活動に共感するのも、
その活動者の信念に賭けるのも、
その活動に価値を見出して寄付するのも、
それはその人の価値観から生まれるものなのだ。
もしその活動者に大金の寄付が入ったとする。
それで運営予算を上回る金額になったとする。
そうしたらどうするべきか?
どこかに困窮している別の活動者がいれば、
その活動者を援護してやればいいと思う。
同じ志なのだから、目的は同じなのだから、
寄付した支援者たちにも異存は無いだろう。
もちろんそれは支援者たちに報告すべきだが、
その活動者が見込んだ同志ということであれば、
支援者たちも納得するはずである。
そうすれば、同志間での余計な嫉妬も無くなるだろう。
片や逼迫して片や安泰では、どうしても嫉妬も起こるだろうから、
それでは動物救護という大義から外れた揉め事の原因になる。
それでは本来の目的から遠く懸け離れてしまうのである。
だから活動者も同志も支援者も、「大度量」が必要なのである。
困窮する活動者を、皆で連携して助けていくべきだと思うのだ。
なにしろそこには、保護した「命たち」がいるのである。
ところで世間は活動者を、無職者と呼ぶことも多い。
何も生まない非生産者と見ることも多い。
世間は「金を稼ぐ労働」だけを労働だと見ている。
「金を稼げない労働」は労働では無いと見ている。
金を生む労働だけが「生産活動」だと見ている。
だが果たして、真に有効な「生産活動」というものは多いのか?
世間に溢れる商品の中で真に有益なものは多いのか?
溢れるサービスの中で真に必要なものは多いのか?
それらが果たして本当に切望されるものなのか?
果たして本当に有効有益で意義あるものなのか?
果たして本当に「生産活動」に値するものなのか?
それらが無いと人人は生きていけないのか?
それらが無いと生活に支障が出るものなのか?
労働の結果の産物が、真に社会的意義を持っているのか?
それが真に社会を豊かに導いているのか?
真に世界を豊かに導いているのか?
真に地球を豊かに導いているのか?
世間は簡単に「生産活動」と呼ぶが、よく考えてみて欲しい。
金を生むから生産活動だと自慢するが、
金を稼がない人間は非生産者だと見下すが、
よく考えてみて欲しいと思うのだ。
本物の非営利活動者の「労働」は、実に大変である。
それが本気であればあるほど、過酷な労働となる。
それをもし「時給」に換算すれば大金になるだろう。
本来ならば、大金に値する労働なのである。
それを「非営利」で甘んじているのである。
しかし活動者は、無職者と蔑まれることが多い。
そういう世の中は、実に寂しい世の中である。
「物質至上主義」の殺伐とした世の中である。
どんどん「人心荒廃」へと加速していくだろう。
たとえば動物救護の後には「世話」が待っている。
たとえば多くの犬たちを世話することは大変である。
たとえば「ブリーダー」という職種にも「世話」がある。
だがブリーダーの場合は営利活動であり、金を稼げる。
たとえば動物園にも、「世話」という労働がある。
だが動物園は営利活動であり、金を稼ぐことができる。
しかし救護活動者は、当然ながら金を稼ぐことはできない。
同じ「世話」という労働である。
だが片や有償労働であり、片や無償労働である。
片や「生産活動」であり、片や「非生産活動」である。
世間はこれを、どのように見ているのだろうか?
金を得る者を有職の自立者と見なし、
金を得られない者を無職の非自立者と見るのだろうか?
そしてその「非生産活動」に対して寄付する行為を、
世間は「物好き」とか「偽善」とか呼ぶのだろうか?
「金になるから」意義あることなのか?
「金にならなければ」意義は無いということか?
世間はそういう価値観で物事を見ているというのか?
世の中で最も重大なのは「心の豊かさ」である。
真に心の豊かさがあれば、困難も乗り越えていける。
それなのに社会は、未だにそれに気づかない。
いつも「心の豊かさ」を軽視して疎かにする。
そんなものは二の次だと考える。
たとえば「戦争反対!」を叫ぶのは簡単だが、
それならば「心の豊かさ」を重視すべきである。
結局は心の荒廃が、戦争を生んでいくのである。
だがそれを目指す教育が、今の日本にあるだろうか?
批判ばかりが得意な人が多いように感じる。
批難ばかりで宥和を知らない人が多いように感じる。
権利ばかりを主張して譲ることを知らない人が多いと感じる。
常に心が攻撃態勢に入っているように感じる。
これでは「戦争反対」どころか、「戦争心」の状態である。
たとえ戦争をやっていなくとも、精神的には戦争の状態である。
そのような中で、人心が豊かに育つとは思えないのである。
子どもたちも、大らかさを忘れて荒廃に向かうだろう。
そしてそれは、どんどん加速していくだろう。
たとえば「非営利有意義活動」に対しても、
もっと大らかな大度量で見守るべきだと思う。
人心が豊かならば、そういう大度量が生まれるはずなのだ。
ところが今の日本には、そういう大度量が不足している。
口を揃えて「汗水たらして稼いだ大事な金!」と言う。
「大事な金を寄付なんかに使えるか!」と言う。
「大事な金を寄付したんだ!精密な報告を見せろ!」と言う。
そういう人が多いから、活動者は肩身が狭い。
ペコペコしなければ世間が納得しない。
ヘタに堂堂としていると「何様か!」と叩かれる。
だからどの活動者も平身低頭を余儀なくされる。
そうでない強気者は、世間から袋叩きにあうのだ。
非常識人呼ばわりされることも多いだろう。
だがひとつ言えることは、
そのくらいの気迫が無ければ、動物は護っていけない。
これは事実である。これを知らない人が多い。
動物たちはそれほどに非道を受けているのである。
非道から救い出すには、尋常な気迫では無理なのだ。
もっと言えば、普通の世間感覚者には荷が重い領域だ。
人人の想像よりもはるかに「リスク」が大きい領域なのだ。
だから支援者たちは、そこら辺を理解する必要がある。
かといって無闇に尊大な活動者はいないはずである。
そういう活動者は、決して長続きしないはずである。
それにしても実に寂しい世の中である。
人心が小さく小さく狭量になっている。
人人はあまりに疑心暗鬼になっている。
本当は寄付者も活動者も、どこまでも対等なのである。
対等と言うよりも、本来は「一体」である。
「一体」を忘れるから、「何様!」という感情が生まれる。
お互いに「何様!」と感じれば、揉め事へと発展する。
それではいつまで経っても、動物たちは救えない。
目的を同じくした同志であることを思い出すべきである。
ただ「役割分担」が違うだけなのである。
お互いにそれを肝に銘じておくべきだと思う。
ところで先般、福島の警戒区域「20km圏内」に、
動物救護活動者たちが救護に向かった。
世間の人人は放射能を極度に怖れているというのに。
それなのに活動者たちは圏内に動物を助けに行った。
彼らは本気だということである。
それなのに、未だに活動を誹謗する妨害者たちがいる。
そして未だに、その悪意に満ちた風評を信じる人がいる。
未だに風評に惑わされ、未だに踊らされているのだ。
己の直観で真実を見抜けない人が多いようである。
それが今の日本だということだろう。
■南無華厳 狼山道院■
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