<<動物制御思想>>
人間は動物を制御するために、
いろんな道具を考案してきた。
制御というよりも「制圧」というべきか。
とにかく「制止:制圧:制御」の道具である。
そもそも・・・
そんな道具を使わなければ制御できないならば、
なんで人間社会に引き込んだのだろう?
動物を無理やり強引に引き込む理由は何なのか?
食うためか?労働力か?あるいはペットか?
いずれにせよ、その強引な制御が、
ごく当たり前の感覚として社会常識となっている。
動物を「思い通り」にすることが当然だと思っている。
確かに人間社会にも事情があるだろう。
だが事情があるにせよ、その「当然感覚」だけは考え直してもらいたい。
それが「当然感覚」となった途端に、大きな間違いが始まるのである。
それを「当然!」と思うか思わないかで、世界が全く変わるのである。
思うか思わないかだけで、別次元の別世界に変わるのである。
それを「当然」と思わなければ、新たな発想が起こってくる。
動物に強引な服従を強要するのではなく、
人間自身が学び、人間自身が成長するようになる。
その「道具」を使わなくとも対話制御が可能になるだろう。
それに向けての、自分自身の「努力!」を始めるだろう。
しかしそれを「当然」だと思っていれば、
自分自身は努力をせずに、動物に強要するだけで終わる。
そこには何の進歩も無い!そこには何の成長も無い!
新たな世界は、永遠に訪れない!
最も痛痛しいのは「鼻輪」である。
牛の鼻輪は、見るだけで痛痛しい。
なぜ鼻輪を通されると牛が服従するか?
それは誰でも一発で分かるだろう。
それを引っ張られれば「痛いから」である。
動物は非常に我慢強い。牛もそうである。
ちょっとやそっとの怪我では、
人間のように大袈裟に動揺を見せない。
その牛が「痛い!」と言うのだから、
それは物凄い激痛なのだろう。
そしてまた引っ張りに頑固に抵抗すれば、
自分の大事な鼻が破壊されてしまうから、
そうすればもはや生きていけないから、
鼻を庇うために抵抗を諦めるのである。
だからもう、どうにもならない状態である。
急所を制圧された「言いなり状態」である。
その事態を平然と眺められるようでは、
人間の感性は半ば死んでいる。
人間は「共生!」と謳うが、
それとは百億光年も懸け離れている。
他にも動物制御の道具はいろいろある。
たとえば乗馬用の「ハミ」である。
これは穏やかな道具の部類だと思うが、
それでもこれを「当たり前」と思ったら悲しい。
もちろん緊急時に「ハミ」は必要になると思うが、
もし普段ならば、もし練達者ならば、
「ハミ無し」でも対話制御できると思う。
実際にそういう練達者はいると思うのだ。
あるいは「犬制御」の道具も、いろいろあるようだ。
私も一応はそういう道具を知っているが、
向学のために一応は試したことはあるが、
日常の実践としては一度も使ったことが無い。
いかに強力な未調教の超大型犬でも、
たとえば強制チェーンのカラーは使わなかった。
もちろん調教途上に於いては、
そのような道具が有効な場合はあるだろうが、
そういう道具を必要とする人はいるだろうが、
私は敢えてそういう方法を選ばなかった。
それとは別の方法に挑み続けた。
それは自分へのチャレンジだった。
昔は頑固な強力犬たちの調練を依頼されたが、
彼らに対しても、そういう道具は使わなかった。
彼ら猛者連中は、私の流儀を理解してくれた。
ところで頑固な犬や興奮性の犬や超剛胆な犬などは、
身体が傷つこうが道具に抵抗する場合も多い。
見た目は無傷でも、内部が損傷する場合もある。
烈しい闘志を呼び覚ます場合もあるだろう。
その場面への憎しみを生む場合もあるだろう。
個体によっては、そういう危険も孕んでいるのだ。
昔昔、雄の超大型の「英マスティフ」を担当した。
肩高は実測で「90cm」近くはあった。骨量も凄かった。
超大型犬の飼育者は大きさを誇張することがあるが、
この雄犬は、見る人が唖然とするほど大きかった。
英マスティフにも、いろんなタイプがいるのだが、
その雄犬は、「動ける身体」のマスティフだった。
つまり、後躯がしっかりしていたのである。
だから、とにかく物凄い力だった。
犬の力には、いろんな種類があるのだが、
その雄犬の力は、まさしく「ブルドーザ!」だった。
強制首輪であろうが、大の男がそのまま引きづられて行く。
それでとりあえず、散歩できるようになるように頼まれたのだ。
私はそれで、当たりの柔らかい普通の首輪に変えた。
手綱は、握りが効くように若干細目の手作り手綱である。
当初は、雄犬の異様な力に驚いたが、全力で受けた。
そしてだんだん、我我は協調に向かっていった。
それまで「お構いなし!」だった雄犬が、
「配慮」を示すようになったのだ。
もうそれだけで、素晴らしい進歩だった。
そして彼に、散歩を楽しむ心の余裕が生まれた。
「散歩とは何か?」を知るようになったのである。
そして彼は、基本調練もマスターしたのだった。
それにしても、なぜ人人は、
道具に頼らなければ制御できないような強力犬を求めるのか?
さらには道具を使っても制御できない飼主も多いようなのだ。
それが「保護犬」ならば、話は全く別物となるが。
保護犬ならば意味は全く違ってくるが、
自分の願望だけで強力犬を求めるのは筋違いである。
もしそんなにそういう犬を「好み」ならば、
まずは自分の力量を高める努力をすべきだと思う。
自分の力量が格段に高まったら、
それで初めてそういう犬を考えればいいと思う。
そして力量が高まれば、
もはや道具に頼らずとも制御できるようになる。
たとえすぐには困難でも、
「対話制御」を目指すという意志が重大だと思う。
あまりにも「強制首輪は当然!」と認識する人が多いようだが、
それが「当然では無い!」ことを知ってもらいたいのだ。
あくまで「やむを得ず・・」だということを知ってもらいたいのだ。
因みに普通首輪でも、「意思の疎通」は充分にできる。
今は亡き大型北極犬たちは圧倒的パワーだったが、
彼らはいつも手作りの「胴輪」で運動したが、
その胴輪でさえ充分に対話できたのである。
ただし調教に於ける練達者の道具使用については、
今回の話とは意味の異なる話になるだろう。
なぜなら、それが練達者だからである。
練達者ならば意味を分かって使うだろう。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:01:07 ≫