
<< 山 界 深 秘 >>
狼山道院は、山が堂宇である。
野性界の動物寺として、
この山で華厳の祈りを捧げてきた。
全世界の動物たちの尊厳を祈ってきた。
もうこの山は、冷凍庫になってしまった。
寒気はさらに、どんどん加速している。
もはや冷蔵庫の中の方が格段に温かい。
それくらい強烈な寒気である。
全てが凍る中でも、犬たちは元気満満である。
今いる家族たちは北方犬種でもなんでもないのだが、
それほど被毛が厚い訳では無いのだが、
そして高齢の犬たちも多いのだが、
それでも寒気をものともせずに元気満満である。
なにしろ12歳も13歳も14歳もいるのである。
「なんでそんなに強いのか!」と、ただただ感服する。
ただただ、頭が下がる思いである。
山の命たちも、そうである。
いや、彼らはもっともっと厳しい状況に生きている。
身体を温める食糧の確保さえ容易ではないのだ。
ほんとうに、凄いと思う。
この山にいると、それをつくづく実感する。
心の底から、リスペクトの思いが湧きあがる。
私はそれを実感するために、この山にいる。
この山に来て二十二年くらいになるが、
電気の無い生活が六年くらいある。
ストーブの無い生活も六年くらいある。
零下二十度の寒気が骨まで食い込んだ。
何日かの絶食は、数え切れないほどある。
食事が無いと、身体はさらに凍えていく。
そういった状況の中で、時には弱気になった。
多くの保護犬たちを家族に迎えて、
生活も人生も「がんじがらめ」になってしまった。
いつもいつも破滅の足音を聞く毎日だった。
もう犬たちと一緒に死ぬしかないかと、
そう思ったことも何度かある。
どうしても打開策が見つからない時、そう思った。
1%の可能性に賭ける生き方だったが、
その1%も見つからない時には、死を考えた。
その時、じっと家族たちを見つめていると、
何かが私の心に入ってきた。
「なんとしてでも!」という気持ちが蘇った。
「なんとしてでも!」の一念を思い出した。
それで生き延びることができた。
きっと野性たちは、私の何倍も何十倍も、
「なんとしてでも!!」の気力で生きているだろう。
彼らの心境を、ありありと実感する。
「自然はいいね!」と人は言う。
「山は美しい!」と人は言う。
だがその美しさの背景には、
信じられないほどの厳しさが隠されている。
そこに棲む命たちは、それを乗り越えて生きている。
彼らがそれを乗り越えて頑張ってきたから、
だから自然が美しい姿を保ってこられた。
だから自然が人人に恩恵を与えられる。
だから人人が恩恵を受けてきた。
そのことを知っている人は少ないだろう。
大自然が、なんで美しくいられるかを、
なんで人間が恩恵を享受できたかを、
知っている人は少ないだろう。
そこに生きる命たちの苦闘の生涯が、
そこに生きる命たちの渾身の気力が、
それが大自然を美しく保ってきたのである。
綺麗な水も、綺麗な空気も、綺麗な景色も、
元を辿れば、一頭の命の生涯に行き着くのだ。
ナチュラリストが言う「バランス」も「循環」も、
元を辿れば、一頭の命の全身全霊に行き着くのだ。
それを分かってくれる人が少ないことに、
野性界として非常に残念である。
この写真の道は、日課の道である。
道とは呼べない道だが、道である。
犬たちと歩く時もあれば、独りでも歩く。
辺りに人間はいない。
ここは深秘の山界である。
蒼い闇の深夜にも、ここを歩く。
山の動物が同行してくれる時も多い。
つかず離れずの距離で、着いて来てくれる。
狐の場合もある。闇夜でも狐だと分かった。
半分子どもの猪が、ずっと着いて来たこともある。
家族はいるはずだが、独りで来たようだ。
私が途中で腰を降ろすと、彼らも歩みを止める。
彼らとともに、この山界の深秘を味わう。
感動が込みあげ、泣きたくなるほどだ。
私は心で華厳を唱える。
この子たちに冥加あれと、心から祈る。
その時、光が現われることもある。
表現できないほどに荘厳な光である。
こんなに純粋なこの子たち。
こんなに無垢なこの子たち。
この子たちがどれほど厳しい生涯を送るかと想うと、
いったいどういう最期を迎えるのかと想うと、
祈らずにはいられない。
だから全霊で華厳の祈りを捧げる。
華厳を唱えていると、振動が起こることがある。
辺りの空気が振動で揺れるのだ。
これは以前話した「姿無き大鳥の羽ばたき」とも違うのだが、
なにか異次元に入ったような感覚になる。
これは仏からの呼びかけだと感じた。
仏が答えてくれたのだと感じた。
仏が山の命たちを想ってくれていると感じた。
ただ感無量である。それ以外に言葉は無い。
このような話を、信じてくれる人は少ないだろう。
だがそれは、しかたの無いことだと思う。
体験した人でなければ信じようが無いと思う。
それが自分の体験とか具体的な領域でなければ、
人人はどうしても信じることができないようである。
この世が不可思議に満ちていることを。
その領域の方が圧倒的に大きいことを。
動物たちに心魂があることを。
彼らが仏を知っていることを。
彼らは仏を信じていることを。
仏も彼らの心を知っていることを。
仏は彼らの全身全霊を見ていることを。
仏が彼らのことを想っていることを。
だから仏が彼らの前に姿を現わすことを。
実は、仏と彼らは一体となっていることを。
仏は彼らと苦しみを分かち合っていることを。
仏は彼らと悲しみを分かち合っていることを。
そこは仏と彼らの共感の世界であることを。
そこに荘厳なドラマが繰り広げられていることを。
野性界には、暮れ正月の賑わいは無い。
大晦日も元旦も、普段と同じ「一日」である。
だからこの山には、初日出というものは無い。
元旦の日出もまた、普段と同じ日出である。
野性界では、毎日毎日が新世界である。
毎日毎日、新たな世界に挑んでいく。
命の使命を果たそうと、懸命に挑んでいく。
それが野性の命たちだ。
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だからこそ、そこに深秘が訪れる。
命たちの全身全霊に、大宇宙の愛心が感動するのだ。
だからそこに、深秘が現われるのだ。
真実の感動があるからこそ、深秘が現われるのだ。
感動の無いところに、深秘など現われはしないのだ。
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毎日毎日、命たちが飽食社会に食われる。
一切の自由を奪われ、一切の尊厳を奪われ、
「感謝?」という虚言の免罪符によって食われる。
あるいは一生を身動きできない状態で乳を搾られる。
生まれてから死ぬまで、一日たりとも安息は無いだろう。
そして最期は、ボロボロになった身体で死地に運ばれる。
あるいは、わざと苛め抜かれた果てに食われる命もいる。
「美味くなる!」という理由で、拷問の挙句に食われる。
あるいは「生きたまま意識の有る状態で」毛皮を剥がれる。
「品質!」という理由で、「生きたまま」皮を剥がれる。
生まれてから死ぬまで、ただ恐怖と絶望だけの命がいる。
こういったことが、この地球上で今も平然と行われている。
それは、野性界の厳しさとは全く意味が違う。
それは、ただひたすら「理不尽」である。
それは一方的な理不尽の「暴力」である。
これではまさに、「生き地獄」である。
仏は、果たしてその傲慢を赦すのか?
大宇宙の愛心は、それを赦すのか?
いずれその回答が訪れると思う。
**** 南 無 華 厳 ****
たとえば「愛犬家」の人たち。
貴方の愛犬と同じ純心が、
全ての動物たちに秘められている。
貴方が愛犬の苦しみに敏感だとしたら、
貴方は他の動物たちの苦しみも分かるはずである。
そのような気持ちで、動物たちを見て欲しい。
あるいは細心の配慮で犬を愛育している人たち。
高価な食事や医療を惜しみなく費やす愛犬家たち。
その愛情の十分の一でもいいから、
他の命たちにも分けてあげて欲しい。
たとえば牛も豚も鳥も、みんな純心に満ちている。
貴方の愛犬と同じように、愛を知っている命である。
どうかそのことを、考えてみて欲しい。
もし貴方がそのような気持ちになれば、
愛犬との絆はさらに深まるはずである。
なぜなら犬たちは、真実の愛を見抜くからである。
貴方の愛犬は、貴方の大きな愛に感動する。
その大きな愛こそが、本当の絆を成し遂げる。
**** 南 無 華 厳 ****
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:12:28 ≫