<< 対 話 視 線 >>
 
「視線」は非常に重大である。
「見る」という意味でも。
「外す」という意味でも。
 
犬と対話するとき。
犬をトレイニングするとき。
犬をレスキューするとき。
そのようなときに「視線」をどうするか?
それについていろんな意見があるようだ。
しかし断定的な意見も多いようである。
 
だがこれは、
「事情による」である。
「時と場合による」である。
「その個体の個性による」である。
すべからく「臨機応変」である。
このようにしか、言いようが無い。
その「臨機応変」ができるようになるために、
専門家は修行を積むのである。
臨機応変こそが、最も難しいのである。
実践家ならば、それが分かっているはずだ。
言葉に出さなくとも、それを実践しているはずだ。
 
もちろん人間自身も、日常生活で「視線」を経験する。
誰かがじっと自分を見つめていれば、それに気付くはずだ。
「なに??」と思うはずだ。
「いったいなんなの??」と思うかも知れない。
「ウザイよ!!その視線!!」と思うかも知れない。
それが好きな人からの視線だったら嬉しくなるだろう。
得体の知れない人からの視線だったら怖くなるだろう。
あるいは視線を感じながらでは仕事がしづらいだろう。
何気ない会話だったら相手を強い視線で見ないだろう。
何かを強く訴えたい時には強い視線で見つめるだろう。
何かを深く伝えたい時には深い視線で見つめるだろう。
だから日常を思い起こせば、
誰でも「視線」の実像が理解できるはずである。
「犬」の場合にも、そんなに大きく違わない。
ただし視線を感じる感覚としては、犬の方が敏感だろう。
犬の方が格段に視線を感得する感覚が鋭いだろう。
しかし人間の視線を感じながらも意に介さない時もある。
視線を感じながらも知らない振りをする時もある。
それはその時の、その犬の事情次第である。
 
犬たちは普段はそんなに見つめ合わない。
彼らはテレパシーが発達しているので、
普段の状況ではそんなに視線を多用しない。
しかし「ここぞ!」という時には視線を使う。
その時には視線が大きな意味を持つ。
視線ひとつで決定的に流れが変わる。
彼らにとっては、視線とはそういうものである。
だから彼らと付き合う時には、それを肝に銘じるべきだ。
絶対にそれを軽く考えてはならないのだ。
「見る時」と「外す時」を、軽く考えてはならない。
 
「見知らぬ犬とは目を合わせるな」と言う人がいる。
「見つめることは攻撃の意志を表明することになる」と言う。
「犬を脅えさせ、あるいは犬の攻撃を誘発する」と言う。
「初対面の場合」「面識が無い場合」には、
確かに人間の視線が圧力になる場合がある。
犬が警戒態勢に入っていれば、臨戦態勢に入っていれば、
当然ながら人間の視線に過敏に反応するだろう。
それは言えるのだが、しかしその人間によりけりである。
その人間の「気配」によって事情は変わるのである。
もちろん、最初から強く見つめて近づくことは禁物だ。
最初は犬に対する意識も外し、あくまで「自然体」を通す。
そうして犬に「観察する機会」を与えてあげる。
ゆっくり充分に観察させてあげる。これが肝心である。
それからは、それこそ「臨機応変」である。
その人の気配とキャリアが、状況を切り開くのである。
 
ところで世間で言われる「アイコンタクト」は重要である。
前述のような緊迫状況以外は、それが重大である。
≪実は緊迫状況に於いてもそれが必要な時がある≫
≪それについては長くなるので別の機会に書く≫
字の如く、まさしく「目で話す」のである。
目で話すのだから、いい加減な気持ちは論外である。
いい加減な気持ちでは、目で話せないのだ。
どれだけ目で話せるか?
どこまで目で話せるか?
常にそれへのチャレンジである。
簡単に言えば、「念を込める」である。
「念を込める」という修練を積むのである。
ただし、自然体が重要である。
修練を積めば、それが自然体でできるようになる。
これは動物たちと付き合う上で、絶対に必要である。
 
ところで盲目の人の場合にはどうだろう?
盲目の犬の場合にはどうだろう?
そこにも「視線」があると感じる。
「見えない目で見る」のだと、強く感じる。
まさしく「心眼」であると、強く感じるのだ。
見えない人は、見えない犬は、必死である。
必死に懸命に「見ようと」している。
だから健常者よりも研ぎ澄まされていると言えるだろう。
己の全集中力で見ようとしているだろう。
己に潜在する全感覚を起動させているだろう。
そして、「見ている」のである。
そこには、心の視線があるのだ。
社会は盲目を「ハンディー」という視座でしか見ないが、
盲目者から大いなる何かを学ぶべきだと思う。
そこには「学ぶ姿勢」「学ぶ発想」が欠けていると思う。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:12:26 ≫