<< 犬 心 観 >>
 
アニマルコミュニケーションの様子が、
テレビなどで紹介されているようだ。
私はテレビが無いので、ネットで概略を読んだ。
多くの対話例を読んでいくにつれ、
次第にその対話模様が見えてきた。
その対話者に限らず、今や本やネットなどで、
多くの対話者の話が紹介されている。
 
昔は実際に、感応者とも話してきた。
「チャネラー」と呼ばれる特殊感応者である。
その人たちの実際の感応力を実感してきた。
私自身も「観たり聴いたり」することはあるが、
特殊感応者たちは、その能力が顕著なようだ。
因みにチャネラーというのは、
「チャンネルを合わすことのできる人」だと思う。
そういう人と協同して一緒に「観た」こともある。
まさしくそれは「ライブ放送」のごとくにリアルだった。
その人が分からない部分に対して私が答えるのだが、
そうするとその人はさらに深くを観れたようなので、
その協同感応は非常に意義深いものであった。
 
「AC:アニマルコミュニケーション」の能力者たちは、
それぞれに独自の感応で交感する。
つまり感応の形は、それぞれなのである。
ある人には見えても、ある人には見えない領域がある。
ある人には聴こえても、ある人には聴こえない領域もある。
そして、「解釈」もまた、それぞれである。
そして、その「表現」もまた、それぞれである。
同様なことを感知しても、解釈が異なる場合がある。
同様なことを感知しても、その表現が異なる場合がある。
解釈や表現が異なれば、話は相当に変わっていく。
対話者によって、話は相当に変わっていく可能性が高いのだ。
ただし、対話者の話を「聞く人」が洞察力を持っていれば、
対話者の話の「肝心な部分」を見極めることはできるだろう。
そうすれば対話者の話を大いなる「ヒント」として、
話の「核心」を見抜くことができるだろう。
つまり「聞く人」の側にも、感応力が求められるのである。
ただ漠然と聞いているのでは、話の真相は分からないのだ。
聞く人も、全集中力を発揮して聞かねばならないのだ。
 
今回、特にテレビの「AC」の話を読んで感じたことがある。
犬たちにとって少し不本意な内容があったということだ。
この内容だと、人人は少し誤解するだろうと感じたのだ。
あたかも犬たちが、
「愛情を求め続ける」だけのように感じるだろう。
いつもいつも飼主の愛を待っているだけのように。
だが犬たちの代弁をさせてもらえば、
犬たちはそんな小さなスケールの世界で生きてはいない。
そんな「恋愛レベル」のような世界に生きてはいない。
もちろんそのような物語りも綴っていくが、それだけではない。
犬たちは、もっと大きなスケールの世界に生きているのだ。
 
たとえば「AC」を紹介した番組を観た人が、
あれでいったい何を学ぶというのか?
ただ単に愛情物語で終わってしまっている。
犬たちの本領が、何も語られていない。
あれでは犬たちをバカにしているようなものだ。
本当なら観た人は、大いなる何かを学べるはずなのに。
たとえば犬たちの「禅心」が。
たとえば犬たちの「義の心」が。
たとえば犬たちの勇気に満ちた死生観が。
たとえば今生の死後の大いなる学びの旅が。
そういったことが何も語られずに終わってしまっている。
ただ「虹の橋で待っている」というような、
そんな小さなスケールの話で終わってしまっている。
それでは犬たちも、大いに心残りだろう。
最も肝心な領域についてを伝言してくれなければ、
犬たちはさぞかし残念無念であろう。
人人は、なんでそういう領域に目を向けないのだろうか?
なんで「虹の橋」での再会とか、輪廻転生での再会とか、
そんなことばかりに望みを抱くのだろうか?
犬たちからの大いなる伝言を、
なんで全身全霊で聴こうとしないのか?
因みに「虹の橋」の場面もあるだろうが、
それはむしろ「飼主を慰める話」だと考えた方がいい。
本当のハイライトは、再会の後の「旅」なのである。
互いに重大な学びの旅を控えているのである。
互いにその旅の健闘を祈ることこそ肝心なのである。
 
それから番組では、
愛情深い飼主の愛犬が紹介されているが、
それがもし無慈悲な飼主の飼犬だったらどうだろう?
一生を、短い鎖で繋がれっ放しの犬たちとか、
一生を、孤独な孤立状態で飼われている犬たちとか。
むしろそういう犬たちの心境を伝えるべきである。
その犬たちがどれほどの忍耐で耐え忍んでいるのか?
どれほど絶望に耐えて生きているのか?
そういう心境を、世間に伝えるべきなのである。
 
私が見る限り、番組内の飼主は愛情深い。
そしてその愛犬の心境は、ただ「感謝」である。
犬たちは決して、多くを望んではいないのだ。
犬たちは充分に、その飼主の愛情が分かっている。
そして犬たちは、人間が思うようには、死を怖れていない。
犬たちは、「今生の死」というものを知っているのだ。
厳然と死と向き合い、死の迎えを覚るということだ。
それについても番組は、犬たちを誤解していると思うのだ。
もちろん、余命ある犬が理不尽な死を怖れるのは、
そんなことは当たり前の話であるが。
ところで犬たちが怖れるものは、死よりも「生き地獄」だろう。
正真正銘の生き地獄に放り込まれた犬は、もはや死を願うだろう。
そこでは、今生の死が、唯一の慈悲なのだ。
慈悲が死の形で迎えに来る場合があるのだ。
これは、ただ「生存こそが絶対だ!」と考える人には、
とうてい理解できない話かも知れないが。
生存と「生!」が違うことを、理解できないかも知れないが。
だが真実は、その犬の「心境」にある。
その犬の心境こそが、その犬にとっての真実である。
だから、その犬の心境を知るしかないのである。
ときには、自ら絶食して自死する場合もある。
これは人間の言う「自殺」とは全く違う話である。
自殺ではなく、あくまでも「自死」である。
生きる可能性を100%失った時の最後の手段である。
生きる可能性の100%を失う場合もあるのだ。
「100%を失う」状況は、体験者しか分からない領域だが。
体験者しか分からないが、
私は禅境の中で、その状況の命の声を聴くことがある。
もちろん、それまでは、99%までは、
彼らは渾身の力を振り絞って生き抜こうとする。
その渾身の覚悟は、人間の何十倍も凄いだろう。
だが時には、可能性を100%失う場合もあるのだ。
その時には、静かに己の死と向かい合うのである。
それは決して「あきらめ」ではなく、
大きな勇気で死を迎え入れるということだ。
犬たちは「生」も知っているが、「死」も知っているのである。
今生の生を、今生の死を、
犬たちは本能の深奥で知っているのである。
だから犬たちは、「AC対話者」の知らない領域も知っているだろう。
自ら実感できない領域については、「AC対話者」も語れないだろう。
「AC対話」は、その対話者の知る領域までしか語れないのだ。
つまりは、そういうことである。
 
犬たちは、愛の偉大さを知っている。
それは人間が考えるよりも大きな愛のことである。
犬たちは、全身全霊で生きようとしている。
犬たちは自分に潜在する力と能力を、
それを存分に発揮して生きたいと願っている。
犬たちは「挑もう!」とする。
犬たちは困難を乗り越えようとする。
己の力と能力を全開にして乗り越えることに、
犬たちは喜びと充実を感じる。
犬たちは本来は、禅境に入る時間を求める。
犬たちはその野性禅の中で身体と精神を調和させる。
そしてまたその中で、身体と精神を回復させる。
犬たちはその中で、自らの回復力をMAXに高めるのだ。
そして犬たちは野性禅の中で、大自然と交感するのである。
身体に支障を抱えた犬たちは、とりわけ禅境を求める。
彼らは自らの肉体の事情を知っているから、
通常の場合とは異なる方法で使命を果たそうとする。
別の方法で「命の使命」を果たそうとする。
すなわち彼らは、自らの精神を高めようとする。
もちろん健常な犬も精神を高めていくのだが、
支障を抱えた犬の場合には、格段にそれが顕著なのだ。
肉体能力を発揮できないから、彼らは精神を高めようとする。
彼らはそれを、自らの「生きる証」にする。
それが彼らの、偉大な「生きる証」である。
これは誇張ではない。これは本当の話である。
私はそのような犬たちを見てきたのだ。
だが彼らの真情を感知できない飼主に飼われれば、
彼らは精神を高める機会を奪われる場合が多いだろう。
飼主の的外れな思惑に翻弄される場合も多いだろう。
 
犬たちは長い歴史の中で、
人間によって好き放題に蹂躙されてきた。
抑圧され、強要され、徹底的に支配されてきた。
あるいは不自由な身体にされて、辛い思いで生きてきた。
普通に生活するだけでも辛い状態の犬も多いのだ。
だが犬たちは、誰も恨んでいない。
誰も憎まず、運命さえも呪わずに、健気に生きてきた。
いつだって健気に全力で生きてきた。
なんでそんな気持ちでいられるのか?
人間だったら不平不満たらたらで、
ひたすら権利ばかりを主張しただろうに。
だが犬たちは理不尽だらけの生涯を明るく生きる。
人間は、なんで犬たちのそういうところを見ないのか?
なんでそういうところから学ぼうとしないのか?
なんで自分たちにできるだろうかと自問しないのか?
そういう領域に踏み込んでこそ「AC」の意義がある。
 
ところで犬たちは、「言語」では思考しない。
彼らは、「感覚」で思考する。
つまり言語を組み立てなくても思考できるということだ。
それは視座を変えれば、物凄いことだと分かるはずだ。
そして犬たち同士の対話は、テレパシーの世界に近い。
もちろん彼らは、いろんな「サイン」で表現するが、
それは対話のごく一場面に過ぎないのだ。
だが彼らのこういった感覚を理解できない人が多いようだ。
こういった感覚が理解できないと、頓珍漢な事態になる。
要するに、犬たちの心境を、
やたらと人間の言語に当てはめてしまう事態だ。
なにも、無理やり当てはめる必要は無いのだが、
どうしてもそれを望んでしまう飼主が多いということか?
その心境を人間の言語で表現できる場合もあるが、
人間の言語では表現できない場合も多いのだ。
まずそれを理解すべきなのである。
そうでないと、どんどん犬を誤解することになるだろう。
犬たちの本領が分からないままに終わるだろう。
おそらく「言語を超えた領域」を理解できない人は、
「感じる!!」ことに慣れていない人だと思う。
慣れていないと、どうしても「言語」で確認したくなるようだ。
普段に感覚生活と無縁だと、そうなってしまうのだろう。
しかし本当に犬と対話するには、
自分も「感覚世界」を実感できなければならない。
まずそれこそが最も重大なのである。
そして「人間の価値観」をどれだけ消せるかが問題である。
「人間の固定観念」をどれだけ消せるかが問題である。
どこまでそれを消して「自然体」になれるかが問題である。
どこまで「命の尊厳の同等」を実感できるかが問題である。
もし人間世界の物差しのままで犬と向き合えば、
最初から対話は成立しないのである。
これは犬に限らず、すべての動物に於いて同じである。
 
アニマルコミュニケーションとは、
つまり「術」ではなく、「禅」の領域である。
どこまでも「心の境地」の問題なのである。
それが分かっていない人が多いと感じる。
ところで禅と言うと、
坐禅だけを思い浮かべる人が多いようだが、
もちろん坐禅は禅のひとつのスタイルだが、
禅とは本来、生きる上のすべてである。
禅とは「心の姿勢」のことである。
「観る姿勢」であり、「聴く姿勢」である。
「対応の姿勢」であり、「行動の姿勢」である。
「目指す姿勢」であり、「挑む姿勢」である。
心と身体のすべてが、禅に直結しているのである。
ところで私は「野性禅」という言葉を使ってきたが、
動物たちの禅は、フリースタイルの野性禅である。
彼らの野性禅は、素晴らしくダイナミックである。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:12:23 ≫