**「攀:HAN」の想い出**
 
「ハン」は、三年前に十六歳で他界した。
ハンの≪攀≫は、登攀の攀である。
困難な崖を「攀じ登る」という意味である。
彼は野良犬だったのだが、
保護した時の直感で、それを感じたのだ。
実際、見事に彼はそういう犬だった。
 
私が彼を迎え入れる準備をしている間は、
友人が一時預かりをしてくれた。
その友人は犬のベテランだった。
そうでなければ、ハンは預かれなかったはずだ。
ハンは、なにしろ「独特に凄い犬!」だったのである。
友人は有色紀州犬の長年の愛好家だった。
紀州犬というと「白」を思い浮かべる人が多いと思うが、
本来はゴマ毛の紀州犬も多かったのである。
人間の「好み」で、近年は白一色になってしまったが。
その友人は有色紀州を愛好するくらいだから、
相当に犬を知っている人間だったのである。
しかしその友人が、ビックリ仰天してしまったのだ。
ハンの、あまりに非凡な身体能力と躍動心に。
どうやらハンは、考えられないほどの動きを見せたらしい。
そして友人は、「急いで!」と連絡してきたのである。
そして私は、急いでハンを迎え入れたのである。
 
彼のエピソードは、星の数ほどある。
あまりに多すぎるので、何を話していいのか。
とにかくハンは、「異能者」だった。
なんでこんな能力が生まれたのか、不思議だった。
闘犬系の血液と、獣猟犬系の血液が、
奇跡的な按配で融合しているような感じだった。
これまでいろんなタイプの猟犬種と付き合ってきたが、
あるいは実戦血統の闘犬種とも付き合ってきたが、
もちろん彼らの動きも凄かったが、
ハンの動きには、強烈な異能力を感じたのである。
狼の動きは、変幻自在の異次元である。
北極犬の動きは、「弾ける鋼球」のような鋭さである。
だがハンは、彼らとも異なる独特の動きだった。
まさに、どこまでも「独特」だったのだ。
2mのフェンスなど、軽軽とワンジャンプで乗り越える。
まあ、ここら辺りは理解の範疇である。
だが彼を語るには、そんな程度では済まされない。
彼は、あるいは30mくらいの直線を、
およそ1.5mごとに、まさしく直角のごとくに、
あたかも両側の見えない壁に弾かれるように、
正に「ジグザグ」に、途方も無い速さで、駆け抜けるのであった。
因みにその進路の幅は、「1m」くらいだった。
要するに、1mの幅の30mの直線を、
1.5mのテンポで直角にジグザグに、
しかも疾風の如くに駆け抜けるのである。
そのジグザグの驚異的なテンポが、今も目に焼き付いている。
それは余程の運動神経と、強靭な全身力が求められる。
そして天性のリズム感が必要とされるのであった。
なんでそんなことをするのか、不思議だった。
だがそれは、ハンの「心の躍動」が、
それがそのまま具現された「表現」であることに気付いた。
彼は心の躍動を、そのまま身体表現できてしまうのだった。
彼は骨格が頑丈なタイプなので、
そんな動きは不得意の部類のはずなのだが、
彼はその常識に反した次元に突入してしまうのであった。
毎日、変幻自在に10km20kmを運動していたから、
身体は充分に絞られていたが、その状態で33kgくらいだった。
普通の散歩の生活なら、それよりずっと重かっただろう。
だから結構、彼は大きな体格の犬だった。
 
因みに彼は、疾走では無く「全力速歩」で、
「登り坂路:時速28km」を超える速さを記録した。
平坦路ならば「時速30km」はマークできただろう。
格闘型の骨格でその速さは、実に大したものである。
その時ハンは、究極の真剣さで真正面を見据え続ける。
その表情は、たとえようも無いくらいに美しかった。
ところで米国から来た雄の大柄なフラットコーテッドも速かった。
その犬は見事な骨格構成で、そして集中力が素晴らしかった。
全力速歩というのは、非常にハードな運動だが、
その雄犬もまた、強い精神力の持ち主だった。
ハンの「全力疾走」は計測しなかったが、それも速かったはずだが、
そちらの領域は、骨格が軽量な「サイトハウンド」が有利である。
さすがに、ボルゾイたちは速かった。まるで風の如くに疾走した。
サイトハウンドたちは、そもそも、そういう骨格なのである。
ところで実戦血統の「ピットブル」は持久力が凄かった。
そして全身が「バネ」に満ちていた。
もちろんアゴの力や闘志も並外れていた。
アゴの力とバネと持久力と闘志が、顕著な特徴だろう。
その持久力とは、「精神の持久力」だと言える。
彼らは肉体の限界を超えて闘い続けるのである。
彼らは人間の残酷な欲望によって、
想像を絶した過酷極まる歴史を背負ってきた。
もし人間ならば、即座に悲鳴を上げてギブアップするだろう。
それは、人間には耐えられない極限の闘いなのである。
ピットブルの特徴の背景には、その無情の歴史が隠されている。
 
ハンは、私が命だった。
私への慕情は、常軌を逸していた。
その純真さは、まことに嬉しい限りであったが、
なにしろ度を超えたような情熱だったので、困ることもあった。
たとえば車の窓ガラスを割って飛び出して、私を追ってきてしまう。
冬だったから、窓はごくごく隙間程度に空けるに留めたが、
他の犬なら、もう少し空けておくのだが、
「もしや」と感じたので最低限度に留めておいたのだが、
彼は一瞬に窓をぶち割って出てきてしまったのである。
2mのフェンスを飛び越えて、あるいは鎖を引きちぎって、
出勤する私の車を追い駆けてきてしまう毎日も続いた。
いったい、彼の御蔭で、何度仕事に遅刻したことか。
あるいは彼は、ついに私の仕事場に辿り着いてしまう。
仕事場の扉のガラス越しに、大きな犬が座っている。
誰かがそれを知らせに来てくれるのだが、
どうやら何時間でも、黙ったまま座っているらしい。
微動だにせずに、じっと中を見つめているらしい。
「うーーん、忠犬ですね!」と人は驚くのであった。
確かに、忠犬なのだが、度を超えた忠犬であった。
彼は、私の言葉が全て分かる。
だが心の激情が、追走行動を起動させてしまうのである。
私への慕情を自制できなくなってしまうのであった。
部屋の中では、彼は正に100%、言うことを聞くのである。
「こんな賢い犬はどこにもいない!」というレベルなのである。
彼には、私の言葉がそのままに通じたのである。
だが私の姿が見えなくなると、事態は一変するのであった。
しかしだんだん、彼も慕情を自制できるようになってきた。
それには何年もかかったが、できるようになったのである。
それはつまり、老境に近づいたからとも言える。
やはり「エネルギー」が減衰したせいもあると思う。
それを感じたから、それが哀しく思えた。
あれほど苦労させられたのに、やはり寂しかった。
彼の肉体の全盛が過ぎたかと思うと、とても寂しかった。
もうあの「ジグザグ疾走」の時代が、終わったのだ。
だがしかし、その後はいよいよ、精神の時代である。
彼の精神は、新たな世界に突入していったのである。
彼はいよいよ、「野性禅」に踏み込んでいったのである。
彼の禅の姿は、まことに美しかった。
私はいつも、時を忘れて彼の姿に見とれていた。
その時いつも胸を過ぎるのは、野良犬だったハンの辛苦である。
発育盛りの子犬にとって、飢えがどんなに辛い苦行だったか。
毎日毎日、ひたすら空腹に耐えていただろう。
肉体が発育の材料を求めて悲鳴を上げていただろう。
よくぞ耐えたと、よくぞ挫けずに頑張ったと、感無量になる。
 
彼の最期もまた、比類なく立派だった。
彼は堂堂と、真正面から己の死と向かい合った。
彼は、誰の助けも求めなかった。
この私の助けさえも、求めなかった。
死とは己自身で厳かに迎えるものだということを、
勇気をもって己自身で向かい合うものだということを、
それを最愛の父である私に見せてくれたのである。
彼は自らの姿で、それを教えてくれたのである。
彼はその名のごとく、まさしく「攀」だった。
彼は最後まで「攀の誇り」に満ち満ちていた。
攀!!ありがとう!!おまえの勇気を忘れない!!
 
 
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家族に迎えて五日目くらい。 多分、一歳の手前くらい。
彼の肉体は急速に栄養を吸収し、今までの遅れを取り戻そうと頑張った。
 
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「呼び」を掛けたところ。「呼び」は絶対条件です。
トレッキングの場合は、私を中心にして螺旋状に移動していきます。
「呼び」の不確かな段階とか、人の入る可能性のある場所では、
とうてい自由疾走はさせられません。とにかく人里では無理ですね。
そして当然ながら、頭数が増えるほど「呼び」は難しくなっていきます。
 
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一歳半くらい。 まだまだ成長途上です。
たとえサイズ的な成長は終りに近づいても、
身体の内側は、まだまだ成長を続けます。
 
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「遊びのドラマ」の、開始の瞬間!!
 
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後ろは生後三ヶ月の「ルウ」。 ルウもまた、保護して家族に迎えた子です。
雪上の疾走は物凄い運動量です。無雪期の何倍も大変です。
 
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ハン:「もっと!もっと!」 ルウ:「もういいよ!!!」
ハンはなにしろ、延延と続けるのです。
まったく、底無しのスタミナでした。
もちろん、頃合を見計らって、終了させます。
 
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ハン:「遊ぼう!遊ぼう!」 オーラン:「もういいよ!!」生後二ヶ月半。
 
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「闘いの練習」です。 ハンは、なにしろ延延と続けます。
オーランはまだ生後六ヶ月くらいです。ハンは一歳半くらい。
オーランはこの瞬間に「紙一重」でよけながら、そのまま攻撃に入ります。
写真だと伝わりませんが、ハンは閃光のようにアタックします。
そしてこれは、あくまで「練習風景」です。
 
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この後、オーランが生後八ヶ月になった頃、「遊びの闘い」は終わりました。
いよいよ本気混じりの闘争になったので、そこで終わりにしました。
北極犬のオーランは子犬と言っても強いので、両者共に大怪我になります。
お互いに一歩も引かなければ、ダメージは非常に大きくなります。
血が出る程度では済まなくなり、身体の内側も大きく損傷します。
 
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五歳くらい。ここは標高1300m。零下20度を超えます。
 
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***** 八歳くらい。 野性禅。*****
ところでハンは、物凄い猟本能を秘めていたのですが、
私を立てて、我慢してくれました。
その代わり、せめて躍動だけは存分に叶えてあげました。
その私の心境を、彼は分かってくれていました。
我我は、お互いに未踏の領域に踏み込んだのです。
それは、「絆の世界」です。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:12:03 ≫