<<動物愛護周辺事情>>
「動物たちを助けてください!」
と願う人人も多いようだ。
だが動物たちを救うのは相当に至難である。
なぜなら社会がそれを考えていないからである。
そればかりか世間もそれを望んでいないからである。
もし世間の大勢がそれを望んでいたなら、
動物愛護はもっとスムーズに展開するはずである。
「助けてあげてください!」と言うのは簡単だが、
助ける人がどれほどのリスクを背負うかを、
知らない人が多いようだ。
どれほどの妨害を受けるのかも知らないようである。
世間には愛護を妨害する勢力が潜んでいるのだ。
それを知らない人が多いことに驚く。
知らないだけならまだいいが、
助けた人が妨害に苦しむ姿を目にしながら、
今度は妨害者の口車に乗って、
妨害者と連合して助けた人を攻撃する人もいる。
そういう人が、意外に多いようである。
最初は「助けてあげて!」と頼んだにもかかわらず、
今度は一転して妨害者側に加担する。
いったい、どうなっているのか。
その人には「己の直観」というものが無いのか。
己の直観が無いから、
ネットの風評ごときに惑わされ、洗脳される。
己の直観が無いから、
物事の核心を見抜くことができないのだ。
核心を見抜けずに、愛護心から遠ざかっていく。
妨害者たちは、なんで妨害に執念を燃やすのか。
そこにはいろんな理由が隠されている。
種種の理由を持つ者たちが結託している。
そこに共通するものは「人間至上主義」である。
そこには動物愛護を標榜する者もいるのだが、
あるいは動物愛護家を装う者もいるのだが、
彼らの思想の根底は人間至上主義である。
愛護と言っても「支配:管理」の思想なのである。
だから極端に言えば、動物虐待者とも話が合う。
信じられないかも知れないが彼らは、
「人間至上主義」の部分で共感し合えるのである。
だからその類の愛護標榜家は、
動物虐待者たちをほとんど糾弾しない。
動物を過酷に扱う商売人のことも、まず糾弾しない。
それどころか逆に、救出を試みる愛護家を攻撃する。
救出に挑む愛護家を「愛誤!」だと糾弾するのである。
動物愛護を標榜する者たちが、
あろうことか愛護実践者を潰しにかかるのである。
議論を装いながら、実は粉砕を目論んでいるのである。
妨害者たちは、とにかく巧妙に工作して世間を扇動する。
彼らはそこそこ知識を備えているので、
作文捏造など朝飯前であり、得意中の得意である。
姑息に巧妙に執拗に工作して扇動していく。
卑怯極まる手段を使って扇動していくのである。
そして世間は、それに簡単に騙されていく。
簡単に染まり、簡単に洗脳されていくのである。
これまで、どれほど愛護家たちが妨害されてきたか。
どれほど悪者にされ、どれほど罵倒されてきたか。
「助けてあげて!」という声に応えた挙句に、
今度は汚名を着せられ悪者呼ばわりされるのである。
こんなに割の合わない活動は珍しいだろう。
動物愛護とは、それほどに認知され難い領域なのだ。
もちろん、さまざまな活動家がいる。
その思想や信念も、さまざまだろう。
だが本物かどうかは、一発で見抜くことができる。
動物の扱いや動物との接し方を見れば一発で分かる。
ネットで延延と議論したところで意味は無い。
活動の実際を見ない限りは、議論などできないはずだ。
議論したいならば、その現場を見に行けばいいのだ。
そこで答えは一発で出るのである。
はたして批難する者は、
その活動家と同じように行動できるだろうか。
パニックになった動物を救うには危険も大きい。
トラウマを抱えた動物を世話するには覚悟が要る。
そういうことを、批難者たちも実践できるだろうか。
だが、現場にも妨害者側の「工作員」が入ることがある。
その工作員たちは、平然と捏造作文するのである。
それを読んで、人人はまたも惑わされていく。
寄付金の会計が最大の重大事だと世間は騒ぐ。
商売でレスキューしていると世間は疑う。
だがちょっと考えれば分かることだ。
それが「割に合う商売か?」ということを。
危険と大労力の活動が、偏見を浴び続ける活動が、
はたして「割に合う商売」だろうか?
そんなことはちょっと考えれば分かるはずである。
もし狡猾に金儲けを目論む人間ならば、
そもそも「割の合う商売!」を探すだろうし、
だいいち衆目監視下の活動など避けるだろう。
そんなことも想像できない人が多いのだろうか。
寄付金がスタッフやボランティアの飲食にも使われた??
それがどうかしたのか。
燃料が無ければ、すべからく動けない。
緊張の中で一息つくために、飲物も必要になる。
活動する人間が燃料を補給することに対しては、
断じて認めることは許されないということか。
たとえば中古の車両が必要だとする。
たとえば施設洗浄機が必要だとする。
そういう機械や道具にも燃料は必要になる。
その燃料は認めても、人間の燃料は認めないということか。
活動服だって必要になる。いろんな雑費も必要になる。
だが全てを疑心暗鬼の目で監視されるようである。
これではまるで人間不信である。
衆目のどこにも、大らかさが無い。
これでは誰も、誰一人として活動できなくなる。
そういう監視下では、誰一人として活動できなくなる。
ついには会計報告だけに精力を傾注し、
最も肝心な救出活動は衰退していくだろう。
そんな結末は最初から分かるはずだと思うのだが。
毎日豪華三昧の献立ならば批判も起こるだろうが、
少なくとも「志」を持った人が、豪華を求めるはずが無い。
もし仮に豪華を求める人ならば、その人は偽者だったのだ。
そういう人は、本心を動物から見抜かれる。
動物から見抜かれる場面を、露呈することになる。
だから現場を見れば、一目瞭然なのである。
しかしながら不思議に思うことがある。
それは活動家たちの結束が弱いことである。
妨害者たちは固く結束しているのに、
肝心の活動家たちの結束が弱いから、
これでは最初から追い込まれることが明らかだ。
誰かが妨害者から攻撃を受けても、誰も助けない。
見事に、誰も助けないのである。
皆が息を潜めてその事態を傍観している。
自分の身に火の粉が降りかからないように、
息を潜めて黙って傍観しているのだ。
それに対しては、大いに疑義を感じる。
同志への義心が非常に希薄だと感じるのである。
だからもはや、妨害者たちの好き放題である。
それがこの日本の動物愛護周辺の現実である。
ところで公益社団を名乗るような大団体の倉庫には、
寄付されたフードなどが山積みだと以前に聞いた。
満杯だから寄付を断っているような話も聞いた。
ところがその一方では、
保護犬用のフードが足りない小団体も多いらしい。
これは、どう考えても、おかしな話である。
余っている所が、足りない所へ配るべきだろう。
それが「有効活用」というものである。
本来なら、それで一件落着の話のはずなのだ。
ところが、それは限りなく不可能な話らしい。
要するに、寄付物資の使途が厳重に規制されるのだろう。
これでは本来の有効活用から余りにも懸け離れている。
≪あるいは最初から分配の発想が無いのかも知れない≫
まさしくこの措置は、
「監視派」たちの要求に応えるものだろう。
このまま「監視」がエスカレートすれば、
すべては手続きに費やされ、
ついには救える命も救えなくなるだろう。
追伸:時どき感じるのだが、
いわゆる「犬猫愛護」の人たちは、
犬猫以外の動物の悲劇に関心が薄い。
それどころか、ほかの動物の尊厳を無視する人もいる。
これはいったい、どうしてだろうか。
もし心から犬猫を愛しているならば、
「動物との対話」を修得していくはずである。
そうすると、ほかの動物の心も感得できるようになる。
そうなれば、すべての動物の悲劇に敏感になるはずなのだ。
ところがそうはならずに、犬猫の話で終わるのである。
それどころか、犬猫以外の愛護を異端視する人もいる。
自分も世間から異端視されていることを知らずに、
本来なら同志であるはずの愛護家を、
「おかしい!異端だ!」と決めつけるのである。
そういう人が、意外に多いのである。
日本の動物愛護意識は、相当に未熟だと思う。
私は昔、動物愛護組織に裏切られたことがある。
だが私は、動物愛護というものに偏見は無い。
しかしながら、進言したいことがある。
動物の実像を知らない愛護家も多いと感じる。
愛護家たちは、もっと動物を知るべきだと思う。
もっと動物の心の実像を知るべきだと思う。
その意味も含めて、私はブログを書いてきた。
このブログには、そういう意味も込められている。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:11:17 ≫