<<頑固な猛犬たち>>
 
これまでの人生で、
とにかくいろんな犬たちと付き合ってきた。
多種多様な犬種たちと寝食を共にしてきた。
自分の家族の犬たちも相当な頭数だが、
仕事としてトレイニングを任された数年間で、
ありとあらゆる個性の犬たちと出会った。
みんなみんな、忘れ得ぬ犬たちである。
その一頭一頭の全員を忘れない。
その全ての犬たちが、
唯一無二の個性に光り輝いていた。
 
その中には、強烈な気性の犬も多かった。
飼主がギブアップ状態の犬も多かった。
力の強い犬。元気すぎる犬。
強烈に頑固な犬。などなど。
こういった犬は、飼主がお手上げとなる場合が多い。
おそらく、どうやって対処していいのか分からないのだろう。
それから、飼主の「力」が追いつかない場合も多い。
強力な犬の場合には、教導の過程に於いて、
あるいは突発的な瞬間の対応に於いて、
どうしても「力」は必要なのである。
たとえ基本的躾けが成されたその後であっても、
「いざ」という時の対処には、
飼主側に最低限の「力」は必要なのである。
これは飼主の体格の話ではない。
体格うんぬんではなく、「力の集中」の話である。
いざという瞬間に、「いかに全身力を発揮できるか」である。
これについて、もっと啓発されるべきだと思うのだが。
< このブログでは、何度か過去記事で書いてきたが。
そしてその身体力と共に、「気力」である。
「集中精神:気合:気迫」などの話である。
この「気力」は、身体力と一体となっていると言えるが。
それを話すと話が長くなるので今回は省略するが。
この、飼主側の力の話はここで終わるが、
いずれにしても、そのような個性の犬たちは、
大いなる誤解を受け続けることが多い。
時には「バカ犬!」と呼ばれることも多いようである。
その犬に隠された輝ける美徳が、
一向に理解されぬままに終わる場合も多いのである。
「ダメ犬!悪い犬!」の烙印を押されてしまうのである。
※因みに、もちろん雄と雌では、まったく違う。
もしその雌犬が強気で頑固に見えたとしても、
雄犬の気性とは違うのである。
それを分かってあげることが重大である。
 
ところで、頑固な犬たちの真情とは?
ここで言う頑固とは、「わがまま頑固」のことではない。
わがまま頑固とは、そもそも頑固とは呼ばない。
だから頑固と「わがまま」を、見極めなくてはならない。
深く洞察すれば、それは明らかに見極められるが。
たとえば古代極地犬の血脈の犬とか。
たとえば古代マスティフの血脈の犬とか。
過酷な忍耐の歴史。過酷な闘いの歴史。
そういう過酷な歴史を背負った犬たち。
彼らを支えてきたものは、ある種の頑固精神である。
己の力だけが頼りの、強烈な自負心である。
それを失えば、彼らは生き抜いてこれなかっただろう。
それほどまでに、その歴史が過酷だったのである。
それは人人の想像を超えた壮絶世界だったのだ。
それを知るだけでも、彼らの真情に近づける。
彼らの本当の真情が、見えてくるのである。
その背景を理解した上で教導するのと、
それを知らずに躾けようとするのとでは、
天地の開きがあり、雲泥の差である。
その「理解」に、鍵が隠されているのである。
それを理解すると、それは犬に伝わる。
段段段段と、伝わっていくのである。
そして犬たちに、新たな心境が生まれる。
彼らは新たな境地に踏み込んでいくのである。
それは長い時間を要する場合も多いが、
頑固な彼らとの「絆」は、また格別である。
飼い難い頑固な犬も、大いなる純情を隠している。
その哀しいほどの純情の本当の本領は、
日常の中では発揮される機会が無いだろう。
なかなか発揮される機会が無いから、
「ダメ犬!」の不名誉を着たままに終わるのである。
私は、彼ら頑固犬たちの真髄を知っている。
彼らの純情は、果てしなく一途である。
彼らは、命懸けで愛する者を護るはずである。
だがその「猛き純情」は、理解され難いだろう。
※本物の野性の「頑なさ」は、尋常では無い。
おそらくそれは、人人に受け入れられないだろう。
 
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まだ剃髪前の時代に。
ブルマスティフと北極犬と。
≪1993:1997≫
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:11:03 ≫