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私は山の中で野性禅に入る。
山の中というか森の中で坐る。
なぜ坐るのかというと、声を聴くためである。
大自然の声というか、
山の命たちの心の声を聴くためである。
山の命たちが、
どんな想いで生きているのか、
それを聴くために坐る。
 
ここは人の入らない森である。
ここに棲むのは、
動物たちと鳥たちと、
木木たちと虫たちである。
動物たちや鳥たちの心の声は聴きやすい。
虫たちの心の声も、ちょっとだけ聴こえる。
だが木木たちの声を聴くのは相当に難しい。
長い年月を賭けて、だんだんに聴こえてきた。
春の日。夏の日。秋の日。冬の日。
春夏秋冬一年中、耳を澄ませてきた。
そうしてだんだん、聴こえてきた。
なぜ聴かなければならないのか。
命たちの尊厳について、その真相を知るために、
どうしても聴かなければならなかったのだ。
 
動物たちは、どうやって生きている?
鳥たちは、どうやって生きている?
虫たちは、どうやって生きている?
草木たちは、どうやって生きている?
自分が分かったことは、
全ての皆が、慎ましく節度を守っていることだ。
全ての皆が、己の本分をわきまえている。
なぜ節度が重大なのかを分かっている。
彼らは皆、節度を守り、互いに譲り合っている。
それが野生の彼らの実像である。
人人の想像を超えて、慎ましく生きているのである。
なによりも、「己の身体」を知っている。
己の身体が真に求めるものが何かを、知っている。
彼らは皆、余分なものを求めたりしないのである。
だからこそ、調和が保たれていくのである。
誰かが余分なものを求め始めれば、
途端に調和は崩れていくのである。
そのことを彼らは、本能の奥底で知っているのである。
それはほんとうに、凄いことだと思う。
大自然は凄いと、心から感動する。
 
大自然は、人間の思考領域を超えている。
たとえば木木たちは、その場を動けない。
移動できずに、成長を続ける。
そのとき木木たちは、
驚くべき配慮で周囲と協調していく。
その幹もその枝も、
一刻一刻に微調整を図りながら成長する。
互いに軋轢を避け合って成長していくのだ。
限界まで共生を試み続けるのだ。
もし互いに我が強ければ、
結局は「共倒れ」になってしまうからだ。
木木たちは、懸命の努力で、それを避けるのである。
その微調整の有様は、まさに神域である。
想像を絶して、絶妙なのである。
もし人間だったら、どうだろう?
互いに権利を主張し合って一歩も譲らず、
ついに共倒れになってしまうのではないだろうか?
 
人間は業が深いと、つくづく感じる。
たとえば人間ほど何から何まで食う生き物はいない。
なぜそんなに何から何まで欲するのだろう。
一言で言えば、欲が深いということだろう。
「満足を知らない」と言ってもいいだろう。
人人は決まり文句のように、
人間は他の生命を戴かなければ生きていけないから、
だから何でも「ありがたく感謝して」戴こうじゃないかと言う。
だがそんな生き物は、どこを探してもいない。
人間は、よほど大きな勘違いをしているのだろう。
だいいち「ありがたく感謝して」と言うが、
その言葉は本心からの言葉だろうか?
ほんとうに本心から感謝しているならば、
「食われる動物たちの、食われるまでの境遇」に、
もっと真剣に向き合うはずだと思うのだが。
だがその兆候すら、未だに無いように感じるのだが。
だから人人の「感謝して」という言葉に、
大きな欺瞞を感じるのである。
「人間は口が上手い!」と感じるのである。
 
もうひとつの決まり文句は、
たとえば非肉食者に対して、
「植物だって命だろ!だったら植物も食うな!」
という批難の言葉である。
だがその言葉は、その人の本心の言葉だろうか。
とてもそうだとは思えない。
もし本心で植物の命に深く尊厳を認めているならば、
その人の日常行動は常人とは異なる行動になるはずだ。
平気では芝生の上にも座れない。
平気では草も刈れない。平気では花も活けれない。
植木鉢の草花を枯らすことなど絶対に赦されない。
平気で大根も切れない。平気で人参も切れない。
野菜売り場には植物の死体が並んでいるから、
とてもじゃないが平気ではそこを通れない。
草の生い茂る山道など絶対に歩けない。
というような日常になるはずなのである。
だが人間は植物に対して、
実際にそこまでの哀憐の情を覚えているだろうか?
もし本当にそういう人がいたなら、ぜひ会ってみたいものである。
そして深く話を傾聴してみたいものである。
どこかのHPで生活環境学かなんかの先生が、
非肉食に対して長長と批判していたが、
「植物だって命です!」と強調していたが、
その人の特技は「草むしり!」だそうである。
まことに「??????」であった。
私は自慢する訳では無いが、草などむしらない。
山に棲んでいるが、周囲は自然のままである。
動物たちや鳥たちだけでなく、
草木たちや虫たちとも、
でき得る限りに共生しようと思っている。
世間には除草剤とか殺虫剤とか、
そういう怖ろしい薬剤が出回っているが、
そんなものは未だかつて使ったことが無い。
そういう発想は、まったく起こらない。
近くにハチたちがブンブンと飛びかっていようとも、
そんなことは一向に気にならない。
長い年月に亘り、ずっとそのスタンスを通してきた。
だから草木や虫たちとも、自然体の間柄である。
「植物だって命だ!」と口で言うのは簡単だが、
私はその人たちの日常を見てみたいものである。
私はこういった事情も踏まえて、
「植物たちの感覚:植物たちの感性:植物たちの情緒」を、
知っておきたいと思ったのだ。
いったい植物と動物の感性は、どこがどう違うのか?
それを知ることは、途轍もなく難しい課題であった。
もはや知識などではどうにもならない世界である。
ただひたすら精神世界の領域である。
だからこそ自分なりに野性禅を磨いてきた。
そして長い年月を賭けてきた。
そして今は、はっきりと言える。
たとえば山の中で森の中で、
そういう自然界の中で、
ある種の禅境に入らなければ、
植物たちの本意は実感できないだろうと言える。
植物たちは、確かに意志を持っている。
植物たちの意志が、はっきりと伝わってくる。
彼らは厳然と、「命!」である。
だが植物たちの感受性は、動物たちとは違う。
相当に大きく違うのである。
両者の身体構造が相当に大きく違うように。
両者は決定的に異なる使命に生きていると感じる。
同じ地球の生命体なれど、使命の属性が違うと感じる。
もちろん、両者の間に優劣など存在しない。
そこには、優等も劣等も高等も下等も無い。
あるのはただ「異なる」という事実だけである。
植物にとっての「生」とは何なのか?
植物にとっての「喜び」とは何なのか?
植物にとっての「悲しみ」とは何なのか?
植物が苦痛を感じるのは、どういう時なのか?
植物の苦痛とは、どのような苦痛なのか?
木木が自らに枝を落とす時、苦痛はあるのか?
木木が自らに葉を落とす時、苦痛はあるのか?
植物は、なぜに移動できない運命を背負っているのか?
植物は、その運命をどのように受け止めているのか?
そのようなことを、ずっと考えてきた。
それを聴きたいと思って野性禅を続けてきた。
そしてだんだん、少しずつ分かってきた。
だが言葉にするのは、とても難しい。
難しいどころか至難である。
今の私の表現力では無理に近い。
ただ、ひとつだけ言えることがある。
植物に、「無念・・」の感情がある。
不本意極まりない時に、彼らは「無念」を感じる。
どういう時かと言うと、
悪意に満ちた相手に存在を否定された時である。
植物を「物」と見る無慈悲な相手に命を絶たれた時である。
植物は、食べてもらうこと自体に抵抗は無いと言う。
だが、悪意ある存在には身を捧げたくないと言う。
植物は、相手を見ているのである。
相手の心の中までも。
たとえば「植物も命だ!」と口では言いながら、
本心では何とも思っていない人に食われれば、
植物は悲しいのである。
草食動物は一見、無造作に草を食っているように見えるが、
彼らは植物の御蔭で生きられることを覚っている。
本能の深奥で、それを知っている。
それはもう、感謝とかを超えた領域の了解である。
 
これはオカルト話ではない。
誰でも、一心に山禅すれば、体験できるはずである。
特に仏道者を自認する人は、是非とも行じるべきだと思う。
なにしろ仏道者を自称して非肉食を批難する人も多いのである。
「肉はダメで、植物は食ってもいいのか!」と声を荒げるのである。
あるいは、「難行苦行は仏道に必要ない!」と言うのである。
「肉を食わない」ことぐらいの、どこが難行苦行なのか?
そんなことぐらい我慢できなくて、どこが仏道なのか?
そんなものは、「我慢」の内にも入らないと思うが。
肉など無くとも、いくらでも豪華な食事ができると思うが。
なぜそのような人が多いかと言えば、理由は明らかだ。
その人は「肉を食いたい!」のである。
肉を我慢することが苦痛な人なのである。
だから延延と屁理屈を捏ねて非肉食者を批難する。
歴史に名を残す世界中の聖者が、非肉食である。
仏教に限らずに、どういう訳か、非肉食である。
聖者たちは、肉食生活では真の覚りに辿り着けないことを、
修行者の本能で感づいていたのだと思う。
そして彼らは自らの肉体で、
人間には肉食が不要であることを証明した。
だがそのような「実証」があるにも関わらず、
人類は未だに延延と肉を食っている。
よほど「大好き!」なのであろう。
今、「地球が危機だ!」と叫ばれている。
地球環境を憂う人人が、日本にも多い。
だが、もし本気で心配しているならば、
肉など食っている場合ではない。
地球を憂うならば、まずは非肉食が先決である。
それはもはや海外では常識となりつつある。
肉ぐらい我慢できなければ、到底地球など救えない。
本気で地球を救おうと思うなら、
肉ぐらい我慢できるはずなのである。
それは今すぐ実行できる、最も簡単な実践である。
最も簡単な実践なのに、知らん顔する人が多いようだが。
因みに数年前に、米国とカナダの合同研究チームが、
植物食生活の著しい有効性を発表したとのこと。
あるいは「国連:FAO」も、植物食生活を推奨している。
 
私は肉食獣を知っている。
狼が家族だったからだ。
私は肉食獣の肉体が、ありありと分かる。
人間の肉体とは根本から異なることが分かる。
なぜ彼らに肉食が必要なのかが、ありありと分かる。
そして私は人間の身体が分かる。
なぜなら、この自分が人間だからだ。
人間が肉を食わないとどうなるか?
なんら支障は起こらない。
どこにも不調は発生しない。
それどころか、健康で精気に満ちる。
身体が存分に潜在力を発揮するようになる。
本来的に人間には植物食が合うことを、
つくづく我が身で実感するのである。
因みに黒熊は、基本的に植物食である。
彼らは人間とは比較にならないほどに頑健である。
その彼らでさえも、植物食が基本なのである。
この森の冬は零下20度を超える。
その冬にも厳しい肉体労働が待っている。
私は非肉食だが、なんら支障は無い。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:10:30 ≫