<< 覚 道 >>
 
大親友のエメラルドさんから便りが来たが、
返信を書いていたら長くなってしまったので、
記事として書くことにした。
 
<「NO:542」へのエメラルドさんのコメント>
狼山さんおはようございます。
阿耨多羅三藐三菩提=至高の覚りだとこの前教えてもらいました。
どの経典にも用いられているくらい重要な言葉なんですね…。
悟り(覚り)の境地に達すると人の心はどうなるんだろうといつも疑問に思っていました。
自然、宇宙と一体化するような感覚でしょうか。
人が無心に空を仰ぐとき、自然を心から敬う時、
ほんの少しだけその境地に近づけるような気がします。
意味を教えてもらったのでこれからちょっと唱えてみようと思います。
 
エメラルドさん。
大自然を眺めた時、あるいは蒼穹夜空を眺めた時、
心の底から、感動が湧き上がる時があると思います。
心の底から、何か尊いものを感じる時があると思います。
心の底から、手を合わせたくなる時があると思います。
そういう時のその心境が、覚りに近いのでは???
だから誰でも、覚りの一瞬というのは、あると思います。

しかし「覚り」は、目指し続けていくものだと思います。
「覚ったから、そこで終わり」は、覚りではないでしょう。
いかなる高僧でも、「覚って終わり」の人はいません。
いかなる高僧でも、常にそれを目指し続ける生涯です。
そこで止まってしまえば、覚りは水の泡となりますね。
もし覚ったと思ってそこで止まってしまったら、
それは結局のところ、覚りでは無かったということです。
「覚りは永遠に目指し続けるもの」・・だと思います。
だからこそいつも心に、
「あのくたらさんみゃくさんぼだい」を想い続ける。
いつも想い続けることこそ重大だと思います。
それは、「永遠の羅針盤」なのです。
※それを目指し続ける心の姿勢を、
「阿耨多羅三藐三菩提心」と言います。

覚りは、そのまま「同体慈悲」を呼び起こします。
覚りによって、あらゆる命の境涯を実感する訳ですから、
種の違いを超えて命たちの苦しみや悲しみを実感する訳ですから、
その命と同体となり「同体慈悲」が湧き起こるのです。
他者の境遇に越境して、他者の心境を我が身に感じる。
苦難の他者の苦しみを、悲劇の他者の悲しみを、
我が身のものとして全身で実感する。
その境地こそが覚りであると思います。
ただし人間世界にとどまる内は、覚りではないでしょう。
種の違いを超えて越境した時こそが覚りだと思います。
あるいは一人で悦に入って「覚った覚った」と喜んでいるうちは、
それは覚りのはるか手前の瞑想段階に過ぎないでしょう。
自己の苦悩を超克しただけでは覚りの手前の段階でしょう。
もし大自然や大宇宙と「一体化」したと感じても、
問題は「そこから」でしょう。いよいよ「そこから」でしょう。
そこから一瞬一瞬に「行動」が生まれるはずなのです。
一瞬一瞬に、他者を想う行動が生まれるはずなのです。
 
覚りとは、どこまでも「目指すこと」だと思います。
はるかな覚りを目指す姿が、そのまま覚りの姿だと思います。
目指す姿こそが、この世で最も尊い姿だと思います。
目指さなければ、命の精神は即座に退廃します。
ただひたすら快楽を追い求めるようになります。
他者の尊厳を微塵も感じなくなります。
同時に自らを破滅の道に追い込むことになります。
目指すことが、いかに尊く重大なのか。
目指すことを忘れれば、即座に破滅にまっしぐらです。
釈尊は、おそらくそのようなことを言っています。
 
釈尊が真覚した時の、
その「自内証の世界」は華厳世界です。
しかし釈尊はこの人間世界を見渡して、
ある種の絶望感を憶えたと想像します。
人人に真覚世界を理解してもらうことの至難を感じたと思います。
一時は、あきらめに近い心境になったと思います。
しかし気持ちを奮い立たせて、
段階を追って人人に説く実践を始めたのです。
その段階説法を、入滅の日まで続けたのです。
入滅の時、釈尊の周りには、
森じゅうの動物たち鳥たちが集まり、
別れを悲しみ別れを惜しんだといいます。
それこそが釈尊の実像を如実に現わしていると思います。
 
<<< 全ての命の尊厳は同等である >>>
私はこれを本心で実感することが「覚り」だと感じています。
 
覚りの話を書けば延延と続いてしまうので、
それでは読むのも嫌になってしまうでしょうから、
ごくごく簡単に短く話してみました。
足早に書いたので文脈が少し飛んでいますがご容赦ください。
また質問が生じたら、またお便りください。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:10:29 ≫