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<< 深 念 合 掌 >>
 
よく自力本願とか他力本願とか言われる。
聖道門とか浄土門とか呼ばれる。
だが自力も他力も無いと思う。
どこまでが自力で、どこからが他力なのか。
そもそも、そんな境目は無いのである。
そもそも命は独りで生きてはいない。
無限の縁起世界で生きている。
運命も一瞬一瞬に変化していく。
だが、だからといって自分の潜在力を放棄したら、
その瞬間に大宇宙の摂理から外れてしまう。
そうなれば迷宮に彷徨うだけである。
気付くまで永遠に彷徨い続けることになる。
無限縁起世界で生きていることを自覚しながらも、
運命は己の意向だけでは決まらないと知っても、
それでも全身全霊で生きていこうとする姿勢が、
その命の運命を変えていくのである。
目には見えなくとも、確実に変えていくのである。
だから、他力であり自力である。
自力であり他力である。
自力と他力が渾然一体となって運命を生んでいく。
次次と新たな運命を生んでいく。
 
祈りとは、命の歌である。
この途轍もない宇宙で生きていこうとするとき、
全身全霊で生きていこうとするとき、
奥の奥から湧きあがる命の絶唱である。
それは自力と他力を超えた領域である。
自力と他力の概念を突き抜けた世界である。
すべてを突き抜けて宇宙大悲と一体となる世界である。
 
祈るとき、自ずとその人は敬虔である。
そのときその人は、すでに敬虔な人なのである。
Sinran:親鸞が「悪人正機」という言葉を残したが、
これはいろいろな解釈がされているようだが、
「悪人こそ成仏の機会がある」という意味では無いだろう。
その悪人とは「己を省みる人」と解釈すべきだと思う。
なぜなら善人気取りの人は、
自分を善人だと思い込んでいる人は、
本気で己を省みることなどしないからだ。
そうなれば、成道からは懸け離れるのである。
その意味での「悪人正機」だと思うのだ。
だいいち、もし悪人ならば、そもそも祈らない。
祈るということは、悪人では無いのである。
悪人だと思っていても、悪人では無いのである。
だが祈らない悪人は、そのときそのまま悪人だろう。
そのままでは、成道から無縁となる。
だが他者が祈りを勧めても意味は薄いだろう。
なぜなら祈りとは、己の奥から湧きあがる想いだからだ。
その人に祈りの気持ちが生まれたとき、
「どうやって祈ればいいのか?」と悩んだとき、
そのとき初めて助言が生きるのである。
※そもそも、人間世界と仏界とでは「法」が違う。
人間世界の物差しでは善悪など判断できないはずだ。
だが人間世界で善人気取りの人は、
そのことに気付きもせずに、葛藤すらもしないだろう。
 
本心で祈りの姿勢に入れば、
その人は生きる姿勢を省みる。
それが本心の祈りであるならば、
自然に自ずと生きる姿勢を省みるのである。
自然に自ずと、己に戒めを課すのである。
他者からの強要ではなく、自ら己を戒めるようになる。
それが、祈りである。
そうでなければ、それは祈りでは無い。
だから享楽のままの姿勢の祈りというのは、あり得ない。
そもそもその姿勢の元では、祈りは生まれないのである。
好き勝手に享楽に生きたいのならば、祈りなど無用である。
だがゆくゆくは、迷宮に彷徨うことになるだろう。
 
ほんとうに本心からの祈りのとき、
湧きあがる想いの祈りのとき、
その人はすでに仏の世界に入っている。
自力と他力の境界を超えている。
 
大宇宙の真相は、祈りである。
大宇宙は、祈りのハーモニーである。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:10:17 ≫