
<< 野 性 仁 義 >>
山の我家の近くには、熊もいる。
反対方向には、猪もいる。
ここは人の気配が無いから、
山獣たちの安全地帯なのである。
かく言う私も人間だが、
私の気配は認めてもらっているようである。
もちろん犬たちは、もはや山に同化している。
山の命たちと同じ世界に棲んでいる。
だから「間合い:距離感覚」も心得ているし、
「礼儀」も「節度」も心得ている。
相手の立場を尊重する仁義を心得ている。
もし我我が仁義を無視したら、
どういうことになるか??
おそらく山獣たちは我我に警告するだろう。
我我は山の仁義を思い知ることになるだろう。
昔と違って今の我家に大型の猛者はいない。
猛者連中は他界し、
今は柴犬クラスの体格の犬たちである。
熊や猪にとっては何の脅威にもならない。
その気になれば、
そのまま我家のエリアに入って来れるのである。
だが山獣たちは、間合いを守ってくれているのである。
おそらく山獣と犬たちとの間で、
「暗黙の了解」が成立しているのだろう。
そうでなければ、何事か起こるはずなのだ。
数年前に初めて熊が訪れた頃には、
(私は外出中だったが、)熊は遊び場のフェンスを乗り越えて、
フードの入った大きなポリバケツを持ち去ったのである。
どうやって大きなポリバケツを咥えたままに、
またフェンスを乗り越えたのか、未だに不思議であるが。
帰宅して事態を知った私は近辺を歩いてみた。
そうしたらほんの何十メートルの場所に、
空のポリバケツが転がっていた。
その近くには、まだ新しい熊のフンがあった。
当然ながら、その後はフードを外に置かないようにした。
ドッグフードは、熊の身体には不適合な食糧なのである。
おそらく胸焼けするだろうし、
食い続ければ必ず体調不良を招くだろう。
それがまず、心配だったのだ。
元元、私は一切のゴミを外に出さなかったのだが、
フードを入れたポリバケツだけは、
作業上の理由でフェンスの中に置いていたのだが、
それも撤去したから匂いのするものは何も無い。
だが熊は、その後も遊びに来たのである。
何の食糧も無いのに、遊びに来たのだ。
犬たちはどうだったか??
まったく平気である。
それどころか、平気で熊の近くまで遊びに行く。
もちろん、呼びを掛ければ即座に戻ってくるが。
要は、自然体なのである。
暗黙の仁義が交わされているのである。
因みに猪に対しても、犬たちは自然体である。
節度をわきまえながら自然体で付き合っている。
だが猛者連中のいた昔には、こういう状況では無かった。
なにしろ狼や狼犬や野性の大型北極犬たちである。
彼らは一言も吠えずに沈黙のままだったが、
彼らがいるだけで、山獣たちは近寄らなかったのである。
おそらくそれもまた、野性同士の暗黙の了解だったのだろう。
だが彼らが他界してから、間合いが一気に狭まった。
間合いが狭まり、私にとって新たな学びが始まったのだ。
犬たちには、私の気持ちが伝わっている。
山獣に対する私の姿勢が、ありありと伝わっている。
だから犬たちは、余計な敵愾心を持ったりしない。
山獣に対して不要な敵意など持っていないのだ。
犬たちのその心境が、山獣たちに伝わるのだ。
だから山獣たちも、大らかな目で見てくれるのだ。
山に素手で入れば、山のことがよく分かる。
ナタもナイフも持たずに、
もちろん鉄砲など持たずに丸腰で入れば、
野性界を垣間見ることができるだろう。
武器など持って入っても、
山のことなど、野性界のことなど、
何ひとつ分からずに終わるだろう。
身体ひとつで入ってこそ、
それで初めて垣間見ることができるのだ。
そのまま夜を迎え、野営する。
夜の山の息吹を肌身で実感する。
夜の野性界の鼓動を全身で実感する。
もし携帯電話で誰かと話したり、
もしラジオや音楽を聞いたりしていたら、
実感することなどできないだろう。
ただただ山の声を聴く。
ただただ野性界の歌を聴く。
夜の山の静寂を、とことん味わうのだ。
静寂の中の野性の力を思い知るのだ。
野性界では、傲慢は通用しない。
思い上がった征服欲など通用しない。
素手のまま一人で入れば、それが分かる。
素手のまま一人で夜を過ごせば、それが分かる。
野性界の厳粛な掟が、ありありと分かる。
野性界の厳粛な生涯が、ありありと分かる。
我が身の非力と、我が精神の脆弱を、とことん思い知る。
鉄砲など担いで山に入っても、何も見えずに終わるだろう。
武器など持って入っても、山の仁義を知らずに終わるだろう。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:10:09 ≫