<< 愛 犬 愛 撫 05 >>
たとえば犬が仰向けになって腹を見せれば、
それを「服従の挨拶」だと言う人が多い。
上位者に対する下位者の行為だと言う。
あるいは犬が人に乗っかったりすれば、
たとえそれが遊びの最中であっても、
それは「権勢の誇示」だと言う人が多い。
だからそのような行為を許してはならないと言う。
あるいは散歩中に犬が少しでも先頭に立とうとすれば、
それもまた上位志向の現われであると言う。
だから犬を絶対に前に行かせてはならないと言う。
犬の行動を、こんなように解説する本が多い。
確かに、犬同士では服従の挨拶の場合がある。
確かに、犬同士では権勢の誇示の場合がある。
だが犬同士でも、ただそれだけには終わらない。
もっと別の意思表示である場合も多いのだ。
犬たちは、そんなに単純では無いのである。
そんなふうに犬を見ていたら、犬に失礼である。
そんなふうな視座で見れば、犬の心境が見えなくなる。
そんなふうに分析していたら、対話など不可能である。
なんでそんな単純な見方しかできないのか??
なんでそんな固まった視座でしか見れないのか??
犬は人間が想像するよりも、
はるかに複雑で繊細な感性の持ち主なのである。
その行為に複数の意味が重なっている場合も多いのだ。
そこには常に、微妙なニュアンスが隠されているのである。
旧来の「犬の躾け本」とかには、
「?????」なことが書かれている。
未だに同様なアドバイスをする専門家も多いようだ。
あるいは旧来の「動物行動学」を参考にして、
そこから躾方法を論説する人も多いようだ。
ここで「旧来の・・・」と言うのは、「旧来の視座」という意味である。
「旧来の動物学」を淵源とした視座である。
それは「動物の心」を認めなかった時代の学問である。
「動物機械論」の面影さえも留める学問である。
動物行動学と言っても、それは生態データ統計学であり、
「動物心境を洞察する学問」では無いのである。
そもそも動物に精神性を認めていないのだから当然である。
人人は動物学とか動物行動学とか聞くと、
「動物の実像を知る専門領域」だと錯覚するようだが、
実態は「動物の外側を観察する」に過ぎないのである。
そもそも動物精神など眼中に無い学問なのである。
だからその視座は冷徹であり、時には非情である。
そして時には冷酷にさえなれるのである。
相手に心を認めなければ、冷酷になれるのである。
≪「動物実験」も、なるほど平気でできるはずである。≫
そういう思想の学問は、もはや革新されるべきだと思う。
この狼山ブログは、そういう願いを込めて書いてきた。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:08:30 ≫