<< 愛 犬 愛 撫 02 >>
 
22年前。朝の挨拶。
狼太郎が立ち上がって、私の両肩に手をかける。
私は下から太郎の太い胴を両手で抱く。
太郎の顔は、私の頭の上である。
私が見上げると、
太郎は大きく口を開いて、私の顔をその口に入れる。
巨狼の口は、実に大きいのである。
私はその口の中で、彼の名を呼ぶ。
「太郎!!!」・・・・・・
そうすると、太郎はとても喜ぶのであった。
「太郎!!おはよう!!!」・・・・・・
私の声が、太郎の口の中に響き渡る。
太郎はたまらなく喜び、私の顔を舐めまくる。
それが我我の、朝の挨拶であった。
 
太郎の唾液は、どういう訳か「さらさら」なので、
私の顔は全然ベトベトしないのである。
なぜ狼の唾液がサラサラなのかは分からないが。
だがその唾液は強力な殺菌力があって、つまり酸が強いので、
毎日舐められていると、顔がヒリヒリしてくる。
私は結構皮膚が丈夫なのでかなり平気だったが、
それでも多少は顔がヒリヒリと荒れてくるのである。
因みに太郎の体臭も、犬とは全然違った。
野性だから「きっと獣臭い」と想像する人が多いと思うが、
実は太郎は全然体臭が無いのであった。
無いというよりも、芳しい香りがするのであった。
それを「芳香」と感じるのは私一人かも知れないが。
いずれにせよ、人人の想像とは多分全然違うはずである。
 
太郎が赤ちゃんの頃は、口移しで食事を与えた。
だが猛烈な食い方だったので、
私の口の中は血だらけになった。
尖った乳歯が、私の舌に突き刺さり、
それでつまり血だらけになったのである。
しばらくはそれでも口移しの毎日を続けたが、
どんどん大きくなり、ますます猛烈になっていったので、
普通に食器で与えるようになった。
なにしろ太郎の乳歯は巨大だったのだ。
彼が初めて我家に来た日に、その乳歯を見た。
そのあまりの大きさに私は唖然となり、
「怪物君」を迎えてしまったことに愕然となった。
ただ大きいだけでなく、
乳歯を包む歯茎の盛り上がりが凄かったのだ。
それは将来の牙の姿を暗示していたのである。
「これは・・・尋常な愛情では不可能だ・・・・」と直感した。
もはや「親の愛」を、実践していくしかなかった。
毎日、彼の全身を舐めてグルーミングした。
赤ちゃんといっても小さな柴犬くらいあったが、
親狼がするように太郎を舐めたのである。
そして一緒の部屋で寝た。
実は太郎は、赤ちゃんの頃は、私を慕わなかった。
愛育の毎日を続けても、彼は一向に甘えなかった。
これは本当の話である。
<北極エスキモー犬の子犬も、多少その傾向があったが>
子犬ならば、その日から家族である。
その日から私を慕い、私の胸で眠る。
だが太郎は、私を決して同族と認識しなかったのである。
頑なに頑なに、私を異族と見ていたのである。
だから太郎は、私の布団から少し離れて寝たのである。
幼い幼い赤ちゃんなのに、孤独や不安を微塵も見せずに、
雄雄しく毅然と野性の孤高を貫いていたのである。
ただの一度も、私に甘えようとはしなかったのである。
太郎が来た日の深夜、彼はひとりで部屋を出て、
月の見える廊下に立ち、
夜空を仰いで長い長いホウルを歌った。
赤ん坊の声とは信じられない重厚な声量で、
母との別れの歌を、渾身のホウルで歌った。
それが母への、最後の歌であった。
母への慕情を自ら断ち切る、覚悟の歌であった。
その姿を見て私の胸は、途轍もない衝撃に貫かれた。
「これが、狼か!!!」・・・ただただ衝撃だった。
それは私が足元にも及ばない「狼世界」の衝撃だった。
それでも、毎晩毎晩、一緒の部屋で寝た。
やがていつの頃からか、太郎は布団に近付いてきた。
だんだんだんだんと、近付いてきたのだ。
そして一緒に寝るようになった。
太郎はよく夢を見た。
何を夢見ているのかは、だいたい想像できた。
母狼のおっぱいを吸っている夢。
兄弟と遊んでいる夢。夢中で走り回っている夢。
夢を見る太郎の姿に、いつもこの胸が切なくなった。
どうすればいいのか。
この自分が親になるしかない。
ただただ、それしかないのである。
一緒にレスリングして遊び、一緒に噛み合って遊んだ。
この腕は、太郎の甘噛みで穴だらけになった。
何十本も太い注射を打たれているような痛みだった。
海外の狼研究者は子狼の相手をする時に、
分厚いプロテクターを着用したようだが、
私はあえて生身で遊びの相手をした。
その方が、のちのち絶対に有効だと感じたからである。
だから激しい痛みにも我慢して太郎に付き合った。
そうしてだんだん、彼に「加減」を教えていったのである。
そして彼は、それを学んでいったのである。
逆に、私もまた太郎を噛んだ。
太郎の口とか鼻とか頬とか耳とか首とか足とか、
とにかく、いろんなところを噛んでみた。
少しずつ力を入れて噛んだり、いろんな噛み方をしてみた。
そうすると太郎は、わざと声を上げたりした。
本当はそんな程度では痛くは無いのに、
彼はわざと声を上げて「芝居」を楽しむのであった。
我我はお互いに演技して、大いに芝居を楽しんだのである。
時には突然、彼は大きく宙を跳んでアタックしてきた。
子狼といっても大型犬くらい大きかったから、
受け損なえば、私は倒されてしまう。
だからこちらも真剣に、瞬時に受身に入るのである。
太郎は、私のその「反応」を見るのが楽しみだったのだ。
太郎は、その「スリル」を楽しんだのである。
彼は満面の笑顔で、スリルのアタックを仕掛けるのであった。
時には物陰に隠れて、私の近付くのを待っている。
私が通りかかった瞬間に、いきなり飛び出てくる。
太郎は、私の驚く顔が見たかったのである。
それは、私をわざと驚かせる「鬼ごっこ」だったのである。
本当は彼も、私が気付いていることは、知っていたのである。
だからこれも、暗黙の了解の「芝居」だったのである。
太郎のあの、いたずらっぽい満面の笑顔が、忘れられない。
 ≪ →→「03」に続く。 ≫
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:08:20 ≫