<< 愛犬生活 02 >>
≪ 「愛犬生活 01」から続く ≫
「子犬の遊び噛み」についても、悩む人が多いようだ。
どの程度で悩むのかは知らないが。
たとえば「甘噛み」についても質問が多いらしい。
それは子犬と母犬との遊びの光景を見れば分かる。
その遊びが月日を追うごとに、
どのように変化していくかを見ていれば明らかである。
子犬は母犬にアタックし、遊びで噛む。
母犬も子犬を、やさしく噛んで応える。
それは遊びの中の「噛む愛撫」であり交感である。
子犬が夢中になって加減を忘れた時には、
母犬はわざと唸り、少し強めに噛んでお仕置きする。
「加減を忘れてはダメよ!!」と叱るのである。
そして子犬は、そのとき「シュン」とする。
そして子犬なりに、反省する。
そうしてだんだん、子犬は加減と程度を学んでいくのである。
噛むことが、コミュニケーションなのである。
犬には、様様な種類の噛み方があるのだ。
噛むと言っても、様様な力の入れ方があるのだ。
それをただの一言で「噛む!!」と言っても、
それでは回答者も回答しようが無いと思うのだが。
かく言う私は、過保護者ではない。
烈しく叱咤する時もある。
烈しく大喝する時もある。
しかし理不尽な叱責はしないと胆に銘じている。
その場の気分で理不尽に叱ることなどしない。
その理不尽は、犬の心を深く傷つけるのである。
子犬が「加減を心得て」甘噛みした場合には、私は叱らない。
子犬が加減に配慮していることが、ありありと分かるからだ。
だがもし闇雲に強く噛んで遊んだなら、強く叱る。
「いい加減にしろ!!」と一喝する。
普通の子犬なら、それで「しょぼん」と恐縮する。
中には剛胆で、ちょっとやそっとではへこたれない子犬もいる。
そういう場合には、叱り方に「コツ」が要る。
それを文面では上手く説明できないが。
子犬の個性や月齢によっても違ってくるからだ。
そしてまた子犬が甘噛みに執着しないように、
子犬が別の方向でエネルギーを発散するように、
そのような工夫をすることも大事である。
存分に躍動すれば子犬は満足し、たいがい静かに休息する。
しかしいずれにしても、
ある程度の時期が来ると、「子犬期の甘噛み」も終わる。
普通は、その遊びは卒業するのである。
だが子犬期の甘噛みが終わっても、
その後も微妙で繊細な「成犬の甘噛み」をする犬もいる。
犬同士ではそれは普通のことだが、
しかし人間に対しては「遠慮」する犬が多いようだ。
成犬の場合は甘噛みというよりも、
「やさしく牙で触れる」という感じである。
そしてもちろんそれは、対話の表現である。
人間に対してはそれを遠慮する犬が多いが、
人間に対してもそれを表現する犬がいる。
ところで「犬の咬み癖」は深刻な悩みだと思う。
当然ながら、理由が隠されているはずだ。
だがその理由は、単純なものでは無いはずだ。
その犬と飼主家族に会ってみなければ、
実際の原因を推測することはできないだろう。
そこにはいろんな事情、いろんな理由があるだろう。
ただしこれだけは頭に入れておいて欲しい。
犬にも、抗議の権利があるということ。
そして抗議の段階があるということ。
だが人間に意思を伝えようとしても人間は理解できない。
だから人間に対する抗議の手段は、
「吠える:唸る:牙を剥く:噛む:咬む」しか無いのである。
それだけは分かってあげて欲しいのだ。
「咬む」の一言で片付ける人が多いようだが、
さまざまな事情があり、さまざまな段階があるのだ。
やむなき「防衛」のために咬む場合もあるのだ。
そこに理不尽極まる事情が隠されている場合もあるのだ。
だから人間は、「犬の抗議の声」を聴けなければならない。
だがそれについて、無関心な飼主が多いように思える。
だが中には、気性が原因で咬む行為に走る犬もいる。
中には、興奮性の強烈な個体もいるのだ。
ようするに、極度に頭に血が昇ってしまうタイプである。
そういう気性の犬は、沈着冷静を覚えねばならない。
そうでないと、人間とは暮らしていけない。
犬社会でも結局、集中攻撃を受ける怖れがある。
だからその犬に、沈着冷静を教えなければならない。
だがそれは、かなり難しいし、時間も必要である。
何年間もかけて、徐徐に変わっていく場合もある。
しかしそれが異常なレベルだと、至難中の至難だろう。
だからその場合には、厳重注意の配慮で飼うしかない。
あるいは異常なレベルの攻撃性の犬もいる。
その場合にも、それを承知で、厳重注意で飼うしかない。
しかしこういった場合には、特に海外では、
安楽死処置のケースも多いように思われる。
ただしどうだろうか??
一般的には、どの程度を「咬まれた」と言うのだろうか。
不可抗力で牙が軽く入った程度でも「咬まれた」と言うのか。
犬はその瞬間、はっと我に帰り、牙を止める場合があるのだ。
あるいはそこにその犬の事情があり、
攻撃とは異なる「抗議」のレベルで、あくまで抗議のレベルで、
軽く牙を当てにくる場合もあるのだ。
あるいは犬同士の闘争の最中で、無我夢中の最中で、
仲裁する人間の身体とは気付かずに、
思わず咬んでしまう場合もあるが、それも攻撃とは異なる。
だが人間の皮膚は華奢なので、
不可抗力で咬まれた場合にも怪我になってしまうのだ。
「牙の穴がポッカリと空いた怪我」ならば、
それは咬まれたと言えるかも知れないが、
私は血が出た程度では咬まれたとは思わない。
一般的には、どの程度を咬まれたと感じるのだろうか。
人間は咬まれた衝撃に驚いて動揺する。
すると犬もまた混乱状態になることがある。
簡単に言えば、判断力を失ってしまうような感じだ。
犬によっては、そういう場合もあるのだ。
その状況は危険なので、
たとえもし咬まれても、沈着を貫かなければならない。
胆力を振り絞って、平然を装い通すのである。
あるいは人間側の「興奮」も禁物である。
興奮は興奮を呼び、事態はさらに悪化する。
つまり沈着を貫くしか、その危機を乗り越える手段は無い。
そしてまた、そのとき飼主が動揺して取り乱せば、
犬によっては飼主に幻滅するので要注意である。
それは後後、まずい形に発展する場合がある。
たとえ咬まれても、飼主は沈着を貫かねばならない。
その時点では、犬は「本気」では無いのである。
その時点で、事を解決しなければならないのだ。
その時点で犬の興奮を鎮めることが重大なのである。
因みに私はこのような姿勢で犬と接するが、
神経質に犬の「権勢症候群?」を怖れたりしないが、
私に対して犬が権勢を誇示することは一度も無かった。
これまで二百頭くらいと付き合ってきたが、
どの犬も、私に敬意を表してくれた。
しかし初対面に近い犬の場合には、
それが強烈な犬であれば、咬まれる場合もあり得る。
もし本気で犬族と付き合うなら、それを覚悟すべきだと思う。
ところで、「狼:太郎」の子狼時代は凄かった。
想像を絶するようなエネルギーだった。
もう24年前の思い出だが、ありありと思い出す。
あまりに沢山のエピソードがあるので書き切れないが。
いろんな猛犬種の子犬たちとも付き合ってきたが、
もちろん彼らも元気満満だったが、太郎とは比較にならない。
太郎の子狼時代は、異次元と呼べるほどに凄かった。
生後六ヶ月の子狼の時に、確か47kgはあった。
それからどんどん大きくなったので計れなくなったが。
全身がパワーの塊りだったが、なにしろ「アゴ」が凄かった。
子狼の時からアゴから全身の力が尋常ではなかった。
だから彼の遊びと躍動には、とにかく唖然とした。
その個体の潜在力は、子供の時に顕著に現れる。
もっと言えば、赤ちゃんの時に、さらに顕著に現れる。
その時、「これが、野性か!!」と、心底驚嘆した。
それから較べれば、猛犬種の子犬の腕白も可愛いものである。
元気満満の子犬の世話で悪戦苦闘する飼主も多いと思うが、
心構えひとつで、無事に通過できるはずだと思うのだが。
ましてや普通は一頭か二頭か三頭の飼育だと思う。
その程度ならば、無事に乗り越えられるはずなのである。
だが途中でギブアップしてしまう飼主が多いようだ。
私にとってその飼主の心境は「????」である。
いったい何の目的で飼った(買った)のか??
いったいどんな気持ちで飼った(買った)のか??
動物を飼うということは、
動物と暮らすということは、
己を試されるということである。
それを胆に銘じた方がいいと思うのだが。
いつまで経っても、ペット放棄が減らないようだ。
何かが根本的に狂っていると感じる。
その何かをどうにかしなくては、
いくら保護活動家が頑張っても、際限が無い。
その何かを、どうにかしていきたい。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:08:03 ≫