<< 愛犬生活 01 >>
犬にとって運動は重大である。
それ無しには、充分な発育ができない。
それ無しには、充分な発達ができない。
それ無しには、強靭な抵抗力を得られない。
それ無しには、強靭な回復力を得られない。
それ無しには、健康を維持できない。
「水」と同じに。「食事」と同じに。
それらと同じに、運動は重大である。
子犬の時期から、運動が必要である。
もちろん幼犬期には「自由運動」である。
縦横無尽に存分に、自由に躍動する。
それが子犬の「仕事」である。
強い身体になるための「仕事」である。
子犬のエネルギーは、とても大きい。
飼主が考えるよりも、はるかに大きい。
食べて飲んで寝て排泄して、躍動する。
たっぷり食事して、充分に水を飲んで、
ぐっすりと寝て、しっかりと排尿排便して、
それ以外の時間は、いつも躍動するのである。
それが子犬の本来の日課であり仕事である。
ところが哀しいことに、
子犬の躍動のエネルギーを知らない飼主が多いようである。
そのエネルギーの意義を知らない飼主が多いようである。
それを知らないで飼うから、ただ叱る毎日になってしまう。
あるいは挙句の果てに、飼育放棄となってしまう。
あるいは、そのエネルギーを無視して、
強引な「躾:しつけ」をしようとする。
そのエネルギーを否定し、
そのエネルギーを強引に閉じ込めようとする。
それが当然の躾だと信じ込んでいる。
閉じ込められた子犬の、なんと多いことか。
そうやって育てられれば、強い身体に育つはずが無い。
「弱く育ちなさい!!」と言っているようなものである。
そしてまたその生活は、子犬の心も閉じ込める。
肉体だけでなく、心も閉じ込めるのである。
エネルギーに満ち溢れた子犬が、
それを抑え込まれて暮らす姿は、とても哀しい。
子犬から、天真爛漫の笑顔が消えていく。
そしていろんな問題も抱えていく。
しかし今の日本の住環境では、
存分に運動し、のびのびと育つことなど、
ほとんど無理に近いだろう。
制約だらけの毎日になるだろう。
小型犬ならまだしも、
大型犬ともなれば、さらに無理に近いだろう。
だがそれでも「ペット」を求める人が多いようだ。
おそらく「犬のエネルギー」を知らない人が多いのだろう。
だから安易に飼う(買う)のだと思う。
しかし飼った以上は、対策せねばならない。
それが飼主の義務であり使命である。
まず、「犬のエネルギー」を認めることである。
それを認めた上で、犬と暗黙の了解を交わすのである。
その気持ちがあるか無いかで、すべてが変わってくる。
「分かっているんだ・・・分かっているんだよ・・・・」
「でもごめんな、この範囲で我慢してくれな・・・・」
というような気持ちを持つか持たないかで、
犬の心境は、まったく変わってくるのである。
犬は飼主の本心を察知し、
自ら少しずつ自制を努力するようになるのだ。
ところが犬のエネルギーの発動を絶対に認めず、
まるで当然の如くに抑圧を強いる飼主も多い。
そういう場合には必ず問題が起こるはずである。
確かに「躾」は必要だが、
犬の持つエネルギーの大きさを知っていての躾と、
それを知らない躾とでは、意義が全く異なる。
そこに「犬との暗黙の了解」があるか無いかでは、
躾の意義が全く違ってくるのである。
子犬は遊びの躍動の中でも、いろんなことを学んでいく。
それは「学んでいく遊び」なのである。
そして生後五ヶ月前後から、急速に理解力が高まっていく。
その時期の理解力に応じて教導していけばいいのである。
むしろ幼犬期は、感受性を育てることが肝心なのである。
飼主を親として慕い、飼主を師として慕い、
飼主の声に反応し、飼主の顔を注目し、
もうそれだけで幼犬期の充分な学びなのである。
そこからいかようにも発展進化していくのである。
執拗に「躾!社会化!」と追い詰めれば、
いずれ「反動」が訪れることとなる。
そしてそれは、犬の心と肉体の両面に現れる。
どういう形で現れるかは、いろいろだが。
子犬に躾を強要する前に、
まず自分自身を振り返ってみるべきである。
そして「親とは何か?」「師とは何か?」を、
よくよく考えてみるべきである。
それが子犬の躾を左右する根本なのである。
ところで「散歩」についても悩みを抱える飼主が多いようだ。
住宅街で犬と散歩するには、いろいろと大変だと思う。
私も二十何年前までは、そのような場所でも散歩した。
だから、およその事情は分かる。
しかし世間のいろんな実情を聞くと、「???」が多い。
まず、散歩練習の段階で、手綱が短か過ぎるように思う。
「引っ張りっこ」の勝負のようになっている。
飼主が「手綱を赦す」ことを知らないように見える。
結果として力の勝負になってしまっている。
まずは犬を「落ち着かせる」ことが肝心である。
犬の気持ちを鎮める配慮が必要である。
自在に手綱を伸縮し、犬と顔を見合わせ、
犬と確認し合い、犬と了解し合う。
しばらく大らかに赦しながら、落ち着かせながら、
そして次第に「散歩」に入っていく。
そういう「過程」が欠けているように思う。
最初から「犬は短めの手綱で側脚行進するもの」
と思い込んでいる飼主が多いような気がする。
確かに街中とか人込みの中では、それが肝心である。
だが普段は、臨機応変で自在な散歩が必要なはずだ。
散歩の中で、いろんな練習ができるのである。
基本的な訓練も散歩の中でできるのである。
散歩の中で、対話していくのである。
散歩が対話であることを、知ってもらいたい。
手綱は、自由自在に伸縮できなければならない。
「伸縮リード」のことでは無く、
自分の手で素早く自在に伸縮するということである。
それは散歩時の基本心得だと思う。
心掛けていれば、それが習慣になる。
それから手綱がだらしなく遊んでいないように、
犬が足に手綱を絡ませたりしないように、
そんなことは、もちろん当たり前のことである。
「ただ綱を持っている」では、散歩にならない。
飼主自身の歩く姿勢や態勢が、とても重大である。
姿勢や態勢を見れば、その人の心構えが分かる。
そしてまた散歩の際には、
飼主は全感覚を起動させておかねばならない。
周囲周辺を全感覚で感知し、予測していく。
犬の心境を間断なく洞察し、挙動を予測する。
散歩中は、つまり間断なく予測の連続である。
≪ 「愛犬生活 02」に続く ≫
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:08:03 ≫