<< 菩 薩 戒 >>
 
梵網経という大乗経典がある。
そこに菩薩戒が記されている。
菩薩を目指す出家者に向けての戒である。
その中に「食肉戒」が含まれている。
「肉を食うべからず」というものだ。
あるいは楞伽経という大乗経典にも、
肉食の戒めが強烈に記されている。
当然の持戒だと思う。
なにしろ菩薩を目指す出家者である。
肉を食いながらの菩薩道修行など、あり得ないだろう。
なにしろ「一切衆生」を想い、
一切衆生を救おうと誓願する出家修行者なのである。
肉を食おうという発想すら湧かないはずである。
一切衆生を本心で想えば、
本心から肉を食えなくなるはずなのだ。
 
現代の日本の出家者の意識はどうだろうか???
この食肉戒が随分と軽視されているのでは???
それどころか、いろんな理屈をくっつけて、
肉食を正当化しようとする出家者も多いのでは???
要するに、自分も食いたいからなのか???
あるいは自分が食っているから、
それを正当化するための理屈を探してくるのか???
あるいは「私も皆さんと同じなんですよ!」と披露し、
大衆の支持を得ようとする魂胆なのか???
普通ならば「食わない」というよりも、
自然に「食えなく」なってくるはずなのだが。
「食いたいという欲求」が自然に無くなるはずなのだが。
心と身体の両方が、肉を求めなくなるはずなのだが。
もはやそれは戒律の問題では無く、
自ずと自然に「自戒」となっていくはずなのだが。
戒律の問題では無く、己の心の問題のはずなのだが。
そもそも「三種の浄肉」など、
あくまで臨機の方便として理解すべきなのに、
それを真に受けて、それを盾とする風潮が強いようだ。
だがそれを盾にすれば、大きな問題が発生する。
その重大問題に気付いていない出家者が多いのか???
気付いていないのか??? それとも無関心なのか???
 
いったいどこが「修行」だというのか。
肉さえ断てずに何を断てるというのか。
肉を食わないことの、どこが難しいのか。
ただ肉を食わない話である。
ただそれだけのことである。
いちいち論ずるまでも無い話である。
ましてや現代は、肉以外の食材が豪華に溢れている。
わざわざ肉を食う必要が、いったいどこにあるというのか。
世間の人人が論ずるなら、まだ話は分かる。
だが出家修行者が肯定の理屈を探してどうするのか。
それではそもそも、出家ではないだろうに。
それではそもそも、修行ではないだろうに。
そもそもなんで、僧侶になったというのか。
僧侶になる必要など、そもそも無いだろうに。
いったい何の目的で僧侶になったというのか。
 
だがそういう風潮の中でも、
厳しい精進を己に課す僧侶もいる。
以前の記事で紹介させて戴いたが、
比叡山の酒井阿闍梨は実に凄い。
毎日「何十km」と山を駆ける回峰行の生活でも、
その食事は実に驚くべき粗食であった。
一杯の蕎麦と、一丁の豆腐と、一個か二個のじゃが芋。
ただそれだけである。その献立で一日二食。
その食事で、何年間も回峰を続けるのであった。
もはや、肉うんぬんという次元では無いのである。
それどころか、生命維持のギリギリの境界だろう。
それから較べれば世間の食卓は、なんと豪華絢爛か。
嗜好食の挙句に病院に通う人の、なんと多いことか。
ダイエットに金を使い、治療に金を使う。
経済が厳しい厳しいと嘆きながら通院出費する。
それではまったく矛盾だらけの食生活である。
それが世間人ならまだ分かるが、
もし僧侶でそのような有様なら大いに問題である。
僧侶は己自身の身体で、
僧食の意義を証していかねばならないと思う。
僧食の意義と有効性を世間に示さねばならないと思う。
それもまた僧侶の重大な使命だと思うのである。
 
ところでインドに、「ジャイナ教」という宗教がある。
ジャイナ教は、仏教と近縁宗教だと呼ばれるようである。
起源も仏教と同時代であり、およそ2500年前である。
このジャイナ教は、極めて動物の尊厳を尊重する。
もちろん動物に限らず、あらゆる命たちを尊重する。
そして実に精力的に動物愛護活動を実践している。
たとえば「家畜保護院」のような施設もあるらしい。
当然ながらジャイナ教徒は、完全植物食のようである。
植物の中でも、主に果実や木の実を食するらしい。
ジャイナ教の「動物への慈悲」は、
インドでは深く理解されているらしいが、
果たしてこの日本では理解を得られるだろうか???
奇異な宗教に見られるのではないだろうか。
仏教でも元元はジャイナ教と同様に、
異種族への慈悲心が尊重されたはずだが、
現代の日本でそれを謳う僧侶はいるのだろうか???
どうも日本の僧侶たちの話の内容が、
人間世界に限られているように思えてならないのだ。
※※もちろん、動物の悲劇を憂う僧侶もいるはずだ。
このブログを訪問してくださる方に、そういう僧師がいる。
そのような僧師に読んで戴き、実に有難いことである。
 
ところで非肉食の話になると、反論が渦巻く。
「植物にも命があるだろうが!」
「なんでも感謝して食べることが生きるということだ!」
「何を食べようが、それが文化だ!」
そういった意見が世間の大勢力だろう。
なにしろ大多数の人が肉を食いたいのだから。
だが少し話を聞いてもらいたい。
野山を歩く時。草を踏む時。芝生に座る時。
草刈をする時。活花を活ける時。木を剪定する時。
まな板の上で大根を切る時。人参を切る時。白菜を切る時。
そのような時に、人は何を感じるだろうか。
そのたびそのたびに、祈りを捧げているだろうか。
人はそのたびに、良心の呵責に苛まれているだろうか。
果たしてそのたびに、「植物の苦しみ」を感じているだろうか。
動物に対する時と植物に対する時とで、
果たして自分の感情が同じ反応となるだろうか。
自分の感情の反応の違いを、
人人は自分自身で知っているはずだと思うのである。
動物と植物が、それぞれに異なる感覚の持主であることを、
人人は暗黙の内に心得ているのだと思うのだ。
もちろん植物もまた、「可愛く、愛しい!」存在である。
そして植物もまた、心から尊敬すべき命たちである。
そんなことは当たり前の話である。
だがその話とは別の次元で、
植物と動物は異なる感覚の持主であることを、
植物と動物とでは感受の感覚が異なることを、
人人は本能の深くで知っているはずなのである。
自分を見つめれば、誰しもそれに思い当たるはずである。
動物を食うには、その前段が存在する。
世界には、いろんな前段が存在する。
あるいは過酷極まる飼育環境の挙句に家畜を食うということ。
生きる希望の全てを奪われて工場生産される家畜たち。
あるいは故意に地獄の苦痛を与えた挙句に食うということ。
わざと極限の恐怖を与えて嬲り殺しの果てに肉にする方法。
感謝も祈りも無く、残酷無情に肉とする場合もあるのだ。
そういうことも、実際に行なわれてきたのである。
そういうことさえ、糾弾されずにきたのである。
それが人間の言う「感謝」なのだろうか。
それが人間の言う「文化」なのだろうか。
「感謝」と「文化」という四文字で、
人間は全てを黙らせてきたのである。
だが肉を欲する人は、食う権利に執着するだろう。
食いたい人から見れば、食わない人は異常であり、
その異常者を排撃することに執念を燃やすだろう。
動物の悲劇の実態を知ってさえ、
それでもなお肉を食う執念に燃える人が多いのである。
2006年にアメリカとカナダの栄養学の合同研究チームが、
植物食の顕著な有効性を発表したようだが、
そのような現実的データを知ってさえ、
それでもなお植物食を異端視する人が多いのである。
家畜の生産が地球規模の環境破壊を生んでいるのに、
それでもなお、そんなことにはお構い無しの世論なのである。
実にまったく、人間の肉食欲求は烈しいものである。
肉を食うための歯もアゴも持っていないというのに。
あの頑強な黒熊は、ほとんど植物食だというのに。
あの頑強なゴリラも植物食だというのに。
こんなに華奢な人間が猛烈な肉食とは恐れ入る。
人間の欲望とは、まったく怖ろしいものである。
人は「感謝!感謝!」と言うが、
いったい何に対して感謝しているというのか???
もし本当に感謝の気持ちがあるのなら、
もし本当に祈りの気持ちがあるのなら、
肉となった動物の生涯に想いを馳せるのが普通だろう。
彼らの生涯とその最期に、想いを馳せるはずである。
 
私の知る韓国の僧侶に聞いた話では、
韓国大乗仏教は持戒に厳しいと言う。
僧侶たちも当然の理として受け止めているようだ。
食肉戒も、至極当然に実践されているようだ。
あるいは中国大乗仏教も持戒に厳しかったと聞く。
その師は語ってくれた。
「大昔の高僧は、動物と対話できたようだ」と言っていた。
彼らは「華厳は大自然の生命力そのもの」と覚ったようだ。
「華厳を知るためには、修行精進が重大」と言っていた。
おそらく精進により感応感覚が研ぎ澄まされるのだろう。
大昔の修行僧は、そうやって「実感」したのだろう。
そうやって仏心を実感していったのだろう。
大乗菩薩戒では、
肉食は人にある慈悲の芽を摘んでしまうと警告する。
はるかな古代に、仏教は未来を予見していたのだろう。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:07:25 ≫