<< 動 物 心 境 02 >>
Animal communication ・・・とは???
先日、夢を見た。
内容は憶えていないが、
夢に登場した「名前」だけは憶えていた。
「ローレン・マッコール」と、鮮明に憶えていた。
「??????」・・・だった。
それが誰かは、まったく知らなかった。
だが確かに、「ローレン・マッコール」だったのだ。
朝、その名を検索してみた。
するとその人は、「アニマルコミュニケーター」であった。
つまり「動物との対話者」ということだ。
かなり以前に、そういったサイトを見たことがあるが、
その時には、ローレンさんの名前は見かけなかった。
今回、夢で初めて知ったのである。
< 因みに私は、夢で何かを知ることも多い。>
ローレンさんの簡単なプロフィールは読んだが、
余りに簡略なので、よくは分からない。
だが少しだけ、ローレンさんの言葉が紹介されていた。
その和訳が「微妙なニュアンス」を伝えているかどうか???
なにしろ微妙なニュアンスこそが重大なのである!!
ところで和訳内容は、頷けるところもあった。
自分もこれまで動物対話や動物心境について書いてきたが、
その和訳内容と、いくつか共通項はある。
たとえば「今を、生きる!」とか、
たとえば「死を受け入れる!」とか。
ただし「内容の表現」については、少し疑問が残る。
なにしろ「表現」は、非常に難しいのである。
とにかく「微妙な領域」なのである。
動物たちは、一瞬一瞬を、全身全霊で生きる。
それは決して大袈裟な表現ではない。
「今」に、己の全存在を賭けて生きる。
だがそれは、「今しか知らない」という意味では無い。
彼らは、「過去」を胸に刻んでいる。
そして彼らは、「今後」を予感する。
はるか追憶を懐かしむこともあるのだ。
怖ろしい今後を察知して脅えることもあるのだ。
彼らにも、過去と未来の概念はあるのだ。
だがそれでも、彼らは「今」に生きるのである。
それが「命の使命」であることを、
彼らは本能の奥深くで知っているのである。
その姿勢こそが、生命力を「MAX」に高めるのだと、
彼らの本能は知っているのである。
その和訳には「今を、最大に楽しむ」・・ように表現されていたが、
それも確かにあるが、それだけでは無い。
「楽しむ」という言葉の、意味の範囲は大きいだろうが、
少し誤解する人も出てくるのではないだろうか。
「生を謳歌する!」と解釈してくれればいいのだが。
「今ここを、存分に生きる!」と読んでくれればいいのだが。
なにしろ今生は、「学び」なのである。
「楽しい!」だけで終わるはずがないのである。
そして動物たちの「死生観」は、人間と相当に違う。
相当に違うのだが、人にはなかなか分かってもらえない。
なぜならほとんどの人が、死を怖れているからだ。
日常の中では、死と真正面から向き合うことが難しいからだ。
だから動物たちの死生観が、実感できないのだろう。
死が生と一体であることを。
死は生のクライマックスでもあることを。
死の瞬間の中にも栄光が隠されていることを。
死の瞬間の中に、生の輝ける証が刻まれることを。
死が肉体との別れであることを。
死が今生との別れであることを。
死は終わりとともに始まりであることを。
死は時に卒業であることを。死は時に慈悲であることを。
もし死が迎えに来なければ、生き地獄が続くこともあるのだ。
死の形で、慈悲が迎えに来ることもあるのだ。
動物たちは、そういうことも分かっているのである。
その和訳では「輪廻転生観」を鍵としているが、その辺も疑問が残る。
動物たちは、輪廻転生観で死と向き合うのではない。
「次があるから・・・次の生があるから・・・・」
という気持ちで死と向き合う訳ではないのだ。
彼らはとことん、真正面から死を見つめるのである。
勇気を振り絞り、己の全てで、死を迎えるのである。
たとえ新たな旅が待ち受けることを知っていても、
それを期待して死を迎える訳ではないのである。
彼らは死の時もまた、「全身全霊」なのである。
全身全霊で生き、全身全霊で死ぬのである。
私は彼らのその姿を、この目で見てきた。
この目に焼きつけ、この胸に刻んだ。
その誰もが、立派な最期だった。
言葉にできないほどに、立派な最期だった。
小さなMiXDOGも、大きな狼も。
誰もが、偉大な光に包まれていたのである。
彼らは、教えてくれた。
死とは、何かを。
「死とは何か」ということは、
「生とは何か」ということである。
「命とは何か」ということである。
彼らは自らの命を以って、
「死と生と命」を教えてくれたのである。
愛する伴侶動物が他界すれば、飼主は悲しむ。
飼主が悲しんでばかりいると、
ペットが「虹の橋」を渡れずに途惑うことになると、
そのように理解することを薦める人も多いようだ。
いつか再会することだけを励みにする人も多いようだ。
だがその考え方だと、動物たちは寂しいだろう。
彼らは、己の命の全てで、教えてくれたのである。
その尊い教えに気付かずに、
ただ感傷だけで終わってしまえば、
動物たちは寂しいだろう。
彼らの最期の姿に、何を見るか。
何を感じ、何を学ぶか。
もしその動物を心から愛していたなら、
彼らの無言のメッセージを受け取れるはずである。
なお、伴侶動物の死に際して、飼主が悲しむのは当然である。
「そんなに悲しまないで!」という助言は成立しないだろう。
その悲しみを胸に刻んだ上で、厳然と学ぶのである。
それがその動物への、最大の供養であるはずだ。
「動物との対話」の根幹は、「禅心」である。
大きな愛を母体とした禅心である。
それ以外には、何も無い。
それに始まり、それに終わるのである。
真の禅心に近づけば、
おのずと自然に、動物との対話ができるのである。
だからつまり、「いかにその境地に近づけるか」である。
「術」では無いのである。
術の次元では無いのである。
だが、「坐禅しろ」という意味では無い。
そういう意味では無いのである。
いかなる時でも「禅心」は持てるのである。
それについては、このブログでずっと書いてきた。
禅心で、動物の心境を観る。
動物は、その人の心境を観ている。
強く伝えたいならば、強い心念を動物に送る。
強い心念は、禅心から生まれる。
雑念が混じると、強い心念は生まれないのである。
なお、動物との対話は、言語対話では無い。
言語の交信とは別世界である。
それは言語を超えた感性交感の世界である。
28年間の野性対話道で、これらを実感した。
ただし、対話できたからといって、
動物を思うがままに意に沿わせることなどできない。
動物が指示に従う場合もあるし、拒否する場合もある。
そもそもそれでは「不純な動機」となり、
それは真の対話から懸け離れているのである。
もちろん教導や制御に於いて対話は根幹だが、
それだけでは彼らを導くことはできない。
動物と共に暮らすには、
対話力とともに、教導力が必要なのである。
対話力を磨きながら、教導力を磨いていくのである。
それにしても、
なぜその人の名前が夢に現れたのだろう???
おそらくその人は、
私が持っていない感覚を持っていると感じる。
ひと口に動物対話と言っても、
人それぞれに対話感覚が異なると思うのだ。
それぞれに独特の感知感受があると思うのだ。
それぞれに独特の表現があると思うのだ。
できれば一度、生の話を聞いてみたいものだ。
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:07:11::