<< 惻 隠 社 会 >>
≪ Sokuin Syakai ≫
 
惻隠:sokuin」 という言葉がある。
「惻隠の情」 などと使われる。
「慈悲的情緒」のことだと思う。
深く大きな「思いやりの心」だと思う。
 
生きている以上、
誰もが生きるのに必死である。
誰もが苦しい中を頑張って生きていく。
だが苦しいからといって、必死だからといって、
自分のことばかり考えていると、調和から遠ざかる。
自分の利益や自分の満足ばかりを考えていると、
結局はもっともっと苦しく、もっともっと不満になる。
むしろ苦境の時こそ、惻隠が問われ試されるのである。
むしろ苦境の時こそ、惻隠の真価が発揮されるのである。
 
この世の誰もが惻隠を大事にしたなら、
この世は劇的に変わっていくだろう。
おのずと自然に、変わっていくだろう。
ただそれだけで、劇的に変わるのである。
ただそれだけで、おのずと自然に変わるのである。
発想が変わり、手段が変わり、現実が変わる。
発想が変われば、その方向に展開していくのである。
発想次第で、全てがその方向に進んでいくのである。
変わらないと思っても、実は変わっているのである。
見えないところで、密かに着実に進行しているのである。
そしていつの間にか、驚くほど変わっているのである。
 
人間社会は、社会を理論化する。
社会の理想を理屈で考え続ける。
そして「これが正論だ!!」と断じる。
理屈で考えた理論を絶対的に信仰する。
理論に気を奪われ、理論を追い求め、
最も肝心な「人心」から遠ざかっていると感じる。
人道を掲げながら、実は人心から離れている。
まるで理論が社会を成立させるごとくに錯覚している。
順番が、逆だと思う。
理論が社会を進化させるのではなく、
人心が社会を進化させるのである。
理論は思考で生み出したものかも知れないが、
それは人間の「頭」で考えたものに過ぎない。
「人心」は、それとはまた別の領域の話なのである。
 
「フェアトレード」という言葉がある。
「公正な対価の取引」という意味だろう。
主に貿易に於いて使われる言葉のようだが。
売買に於いても、そして雇用に於いても、
その「フェアトレード精神」は重大である。
売り手も、買い手も。
経営者も、従業員も。
そこには本来、対等の尊厳があるはずである。
どちらが偉いとかの概念は生まれないはずである。
ならば「買い叩く」という発想は生まれないはずである。
「安く安く使おう」という発想は生まれないはずである。
だが現実には「買い叩き」の世の中である。
そして世間も、それを暗黙に認めている。
なぜならば、自分たちが「安く買える」からである。
それが「安く買える」ことに結びついているからである。
仕入れを買い叩き、人件費を削れば、
「安い商品」を提供できる。
そうすれば消費者は喜び、その商品は売れる。
一見、安ければ社会正義のように見えるが、
その陰では「買い叩き」に苦しむ生産者と労働者がいるだろう。
これでは非常に不平等な構図だと思う。
だからこそ、そこに「フェアトレード精神」が必要だと思う。
社会自体が、その精神を持つべきと思う。
安くて素敵な商品を見れば消費者は嬉しいが、
「これは対等な対価だろうか???」と、考えていくべきと思うのだ。
豊かで余裕のある国の企業は、
貧しい途上国の企業から、
フェアトレードで輸入しているだろうか。
足元を見て安く買い叩いてはいないだろうか???
誰かが過剰に得すれば、誰かが苦しむこととなる。
その苦しみは、必ず世の中に波及する。
やがて世の中の全体が苦しくなっていくのである。
私は極貧生活が長いが、
誰かが苦しんだ果ての「安い商品」では喜べない。
たとえ自分が限界的生活でも、
「そのような安さ」では喜べない。
生産者も労働者も販売者も消費者も、
全ての人人が対等な対価の元に暮らせればいいと思う。
ただしその社会は、理論に頼っても実現できないと感じる。
理論に頼れば、やがて歪みが生じてくると感じるのだ。
必要なのは、「フェアトレード精神」だと思う。
そしてその精神は、「惻隠」から生まれるものだと思う。
人人が惻隠に生きる「惻隠社会」の到来を祈願する。
そして惻隠が国を超えて発揮され、
この世が「惻隠世界」になることを祈願する。
そしてその惻隠は、
人間以外の命に対しても、発揮されていくだろう。
それこそが、「惻隠」だと思うのだ。
人間以外の命が苦しめば、
結局は人間もまた苦しむことになる。
惻隠は結局、自分をも救うのである。
 
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:07:06::