<< 凄 愴 の 狼 >>
 ≪ Seisou no ookami ≫
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14年前に、
アメリカンネイティヴの友人から、
一本のビデオ映像を見せられた。
その映像の衝撃が、今も続いている。
 
一頭の見事な狼・・・
重厚な骨格の、極大型の雄狼。
画面からでも、その体格の威容が分かる。
立ち上がれば、2mに近い大きさだろう。
そして全身が、無言の貫禄に満ちている。
おそらく彼は、ボスレベルの個体であろう。
とにかく、美しかった。
大自然の芸術だと思えるほどに、
重厚な野性美に満ちていた。
 
だがその狼は・・・
だがその狼は、「ワナ」に捕えられていた。
左前肢を、「ワイヤートラップ」に捕えられていた。
ワイヤーの、くくり罠である。
どんなことをしても絶対に外れない罠である。
「引けば締まるワナ」・・なのである。
どこまでもワイヤーが食い込んでいくのである。
狼は前肢の上部を、
その地獄の罠に捕えられたのだ。
 
狼は、静かに立っていた。
己の状況を把握していながらも、
己の極限の危機を知りながらも、
ただ静かに立っていた。
そして雄雄しく毅然と、カメラを見つめていた。
狼のその顔が、大きく映し出される。
その顔は、威厳に満ち満ちていた。
その目は、澄んだ力に満ち満ちていた。
狼はただ、
撮影者を見つめるだけであった。
狼はただ、雄雄しく毅然と立っていた。
 
二日目、三日目と、撮影が続く。
いったい、何の目的の撮影なのか??
何の観察なのか??何の実験なのか??
映像制作者は、野生動物研究組織である。
「研究」の目的で、撮影されたのだという。
罠に捕えられた狼の最期を観察するのか??
 
狼の左前肢は、
上から下まで、
全ての肉を失っていた。
つまり、骨だけの状態であった。
狼は前肢の肉を失った姿で、立っていた。
立っていたのである。
一日目と同じ立姿で。
雄雄しく毅然と静かに。
そして、撮影者を、ただ見つめていた。
神神しいほどに澄んだ眼光であった。
全ての肉を削ぎ落とされた前肢を、
もはや骨だけの前肢を、
私はまともに正視できなかった。
あまりにも無残な光景であった。
 
狼だから平気なのではない。
狼もまた人間同様に痛覚を持っている。
狼と暮らしたから、それが分かる。
狼は人間同様に深い感受性の持ち主である。
遊びの中で、わざと狼の耳や唇を咬んだりもしたが、
狼は人間以上に繊細な感受感覚の持ち主だと感じた。
その鋭敏な痛覚と深い感受性を持つ狼が、
信じられないほどの気力で、
静かに立っていたのである。
もはや気力だけで、立っていたのである。
気力の凄さ・・・
狼の壮絶な気力に、言葉が出なかった。
狼の誇りか・・・
狼の矜持か・・・
その狼の崇高な気力に、言葉を失った。
 
確か三日目辺りの映像に、
狼の最期の姿が映し出されていた。
狼は遂に、倒れていたのである。
その気力の最後の一滴まで、
遂に使い果たしたのであった。
最後の最後まで、
狼は雄雄しく毅然と立っていたのである。
力尽きて倒れた姿が、
あまりにも無残であった。
その死の姿は、凄愴そのものであった。
 
それが「研究」というものか???
それが野生動物の研究科目か???
生態研究とは、命の研究では無いのか???
動物は、命ではなく「モノ」なのか???
「モノ」として見ているのか???
「モノ」として見るから、こんなことが出来るのか???
それが「研究者」というものか???
それがまさか研究者の本性なのか???
その映像は、おそらく二十年ほど昔のものである。
カナダ北部かアラスカで撮られたものである。
その後に研究界の、
動物に対するスタンスは、
どのように変わっただろうか。
動物に「心」を認めるようになっただろうか。
変わってきたことを、心から願う次第である。
もし変わっていなければ、
変わってもらわねばならない。
 
あの凄愴の狼を、
狼山は毎日、弔っている。
どんなに忙しくとも、どんなに疲れていても、
あの凄愴の狼を忘れた日は無い。
彼への最大の供養は、
野性対話道を突き進むことである。
世界の人人に野性の真情を知ってもらうことである。
 
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:06:28::