<< 同 情 心 >>
 
同情というものが、
軽く見られているように思う。
「同情するなら金をくれ!!」
・・というジョーク??もあるが、
もしそこに同情が無ければ、
金をくれるどころか、無視である
まず先に同情があるからこそ、
支援の可能性も出てくるのである。
あるいは穿った見方をされて、
「偽善!!」と呼ばれる場合も多いようだ。
偽善と呼ぶことが正義だと見られるのか?
偽善もなにも・・・
「冷酷」よりは、はるかにまともだろうに。
それとも冷酷非情の方がカッコイイのだろうか?
そういう時代なのだろうか?
 
同情を一番簡単な言葉に現わせば、
「かわいそう:可哀想」であろう。
この「かわいそう・・」がまた不遇である。
「その言葉は高慢であり傲慢である!!」
・・と批難する人もいるようである。
「高見に立って他者を蔑む言葉である!!」
・・と怒り出す人もいるようである。
いったいどこからそんな発想が湧き起こるのか?
「かわいそう」は、ただ「かわいそう」である。
それ以外の不純物は含まれていない。
それはただ純粋に「かわいそう」である。
 
強い立場の者が弱い立場の者の窮状を知り、
「かわいそう」と思ったとき、
それを「高慢な偽善心」だと見る人もいるようだ。
だがその弱い立場の者が、
さらに弱い立場の者に対して、
「かわいそう」と思ったとしたなら、どうだろうか。
それもまた「高慢な偽善心」になるのだろうか。
「かわいそう」には、
立場など微塵も関係ないのである。
その「立場」に囚われるから、
それに囚われた視座で見てしまうから、
「かわいそう」の実像が見えなくなるのである。
 
私は昔、いつもボロボロの服を着ていた。
洗ってはいたし、自分で縫ってはいたが、
あちこちがボロボロだった。
その服のままで平気でどこでも行った。
恥ずかしくもなんともなかった。
知らない誰かに、声を掛けられることもあった。
「大丈夫ですか?ご飯食べてますか?」
・・と言われたこともある。
要するに、「かわいそう」と思われたのである。
私はただ感激し、心から感謝した。
「ありがとうございます!!大丈夫です!!」
・・と答えたが、なおも心配げに見送ってくれた。
その人は立派な身なりである。
私はボロボロである。
その人は金持ちのようだった。
私は極貧である。
だが「立場」などは、一切関係ないのである。
そこに生じるものは、ただ「心の関係」である。
私にとって社会の地位とか肩書きとか立場など、
そんなものは一切関係なかったので、
そんなものを考えながら人を見たことが無い。
その人の心だけを見る習慣である。
だから、どこの誰でも全く関係ない。
どこの誰から「かわいそう」と言われても、
ただ「ありがとうございます!!」である。
逆に言えば、
どこの誰から愚弄されれば、
どこの誰でも話を付けに行く。
相手の地位や勢力などは関係ない。
山界生活に入ってからは、
そういう場面は無くなったが。
要は同情される時にも愚弄される時にも、
相手の地位権勢など一切関係なく、
ただ相手の心境こそが肝心である。
ところで・・・
もし相手の同情を「侮辱」と感じるのならば、
それは揺ぎ無い自信が不足しているからだろう。
たとえ自分がどんな境遇であろうとも、
命としての自信があれば、
己としての誇りと矜持があれば、
自然体で同情を受け止められるはずである。
己の命の誇りと矜持は、如何なる時にも重大である。
 
「かわいそう!!」は、
どんな理屈よりも尊いものである。
どんな能書きよりも尊い宝物である。
まずはそこから始まるのである。
それ無しには、始まらないのである。
それがあるから、始まるのである。
 
弱い立場の者が、
さらに弱い立場の者に同情するとき。
自らも苦境に立つのに、
さらなる苦境の者を同情するとき。
その同情心は菩薩の境地である。
「同情するなら誰にもできる!!」
・・と思われるかも知れないが、
実際にはそれは相当に至難なのである。
自分が弱い立場でいると、
自分が苦境に立っていると、
ともするとさらに弱い立場の者を、
ともするとさらに苦境に立つ者を、
蔑み虐める場合も多いのではなかろうか。
たとえば職場とか会社でも、
そういう事態になりがちなのではなかろうか。
時には鬱憤晴らしのために。
時には怒りに任せて。
 
弱い立場の者が、苦境に立つ者が、
さらに弱い立場の者へ、
さらなる苦境に立つ者へ、
同情心を起こすことは、
それだけで偉大な美徳である。
その「かわいそう」は、どんな理屈よりも尊い。
そして異なる種の命に対する「かわいそう」も、
全く同じに尊いのである。
そしてその「かわいそう」は、
いつか必ず行動へと昇華する。
いつか必ず、世の中を変えていく。
 
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:06:24::