**≪ 介 錯 心 ≫**
 
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武士が切腹する時、
介錯人が背後に控える。
短刀で自分の腹を切り裂いても、
相当に深く切り裂いても、
「死ぬに死ねない状態」が、
かなり長時間続くらしいので、
それはもう耐え難い激痛らしいので、
のた打ち回るほどの激痛らしいので、
その激痛の苦しみを終わらせるために、
一思いに死ねるように、
介錯人が首を一刀両断するらしい。
それは武士の情であり、惻隠の情であろう。
切腹行為が、己の誠と決意の証だとしても、
その途方も無い苦悶を見るに見かねて、
介錯を認める儀式へと変遷したのだろう。
だから介錯人は、達人でなければならない。
よほどの達人でなければ、介錯はできないだろう。
 
死の運命が決定したならば、
もはや絶対に避けられないものならば、
誰だって楽に死にたいだろう。
苦悶の果てに死にたいなど、
この世の誰ひとり、望まないだろう。
そしてそれは、
動物の場合も、全く同じである。
動物もまた人間と同様に、
恐怖を感じ、絶望を感じ、痛みを感じる。
感受性も痛覚も、人間と全く一緒なのである。
「死ぬと決まったならば、一思いに・・・」
それが生死の狭間の最期の願いである。
その最期の願いを叶える存在が、介錯人である。
だからそれは、極限に厳かな聖なる使命である。
 
世の人人が食卓に「肉」を求める限り、
家畜の命を絶つという過程が避けられない。
誰かがその任務を引き受けなければ、
人人は肉を食えないのである。
人人が肉を食わないならば、その任務は発生しないが、
人人は現実に肉を求めているのである。
その任務は本来、あまりにも重く辛く苦しいだろう。
毎日が、「死」との対峙なのである。
それは人人の想像を超えた対峙であろう。
<<対峙とは「全存在で向かい合う」という意味である>>
世の人人は肉を食う時、死と対峙してはいない。
だからその「対峙」の意味の深さが実感できないだろう。
 
何かの記事で、
家畜の命を絶つ任務者の話が載っていた。
その人は大変なベテランのようであり、
そして達人であるようだ。
「達人」・・つまり介錯人である。
厳かな聖なる介錯の達人なのである。
その人は、介錯の誇りと矜持で生きている。
常に、真の介錯を目指してきたのである。
だがその人は、
耐え難い後悔に苦しんでいるという。
まだ研鑽の浅かった若い時代に、
一頭の大きなヤギに対して、
「介錯」をまっとうできなかったという。
ヤギは血に染まりながらも、
絶命できずに苦しんだという。
その苦しむ光景を、今もなお忘れないという。
どうにも忘れることができないという。
「一思いに、楽に死なせてあげたかった・・・」
「ただただ、申し訳ない・・申し訳ない・・・」
そのような悲しみの胸中を、
その人は涙ながらに語っていた。
その人には、動物の心境が分かるのである。
だからこそ、介錯の重大さを知っているのである。
だからこそ、その重大な任務を引き受けているのである。
私は、そのように感じた。
私には、その人の胸中が痛切に伝わってくる。
その動物の死が避けられないならば、
せめてこの自分の入魂の介錯で、
一思いに死なせてあげたい・・・
それは極限状況での慈悲心である。
それは慈悲が生む介錯心である。
食う人人は「感謝」という言葉を多用するが、
その「感謝」を突き詰めていけば、
この介錯心に行き着くのである。
世の人人が肉を食う以上は、
「感謝」と口にする以上は、
「介錯心」に想いを馳せるべきだと思うのだ。
世の人人は、
前述の介錯人の真意を理解できるだろうか。
その人の胸中は、果たして理解されているだろうか。
私は肉を食わない。牛乳も飲まない。玉子も食わない。
だが私には、その介錯人の胸中が分かる。
その人は食う人人に代わって、
「介錯の祈り」を捧げているのである。
私は、その人に祈りを捧げている。
その厳かで聖なる介錯心に、
ただ一心に祈りを捧げている。
<<<南 無 華 厳 大 悲 界>>>
 
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世の人人が肉を食う限り、
家畜の命を絶つ過程は避けられない。
それに関する「本」は、いろいろ出ている。
何冊か紹介する。
::「牛を屠る」 著:佐川光晴
::「世界屠畜紀行」 著:内澤旬子
<内澤氏は「飼い食い体験」もされたようである>
www.mishimaga.com/interview/005.html
www.mishimaga.com/interview/006.html
::「豚は月夜に歌う」 著:ジェフリー・M・マッソン
<副題:家畜の感情世界>
 
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:06:22::