**≪ 静 聴 ≫**
一日の終わりに、
あるいは一日の始めに、
あるいは一日の途中に、
「静かな時間」を過ごす日課が必要だと思う。
新聞も読まずに、本も読まずに、
テレビも見ずに、パソコンも見ずに、
ただ静かな時間を過ごす時間が必要だと思う。
いろんなことが頭に浮かんできても、
それを思考せずに、どんどん流していく。
いろんなことが胸に去来しても、
そこに気持ちを留めずに、どんどん流していく。
次次と頭に浮かんでくることに、
次次と胸に去来するものに、
いっさい囚われずに、どんどん通過させていく。
そうすると、物凄く静かな状態に入っていく。
普通の静けさとは異なる、深い静寂である。
この「どんどん通過させていく」・・というのは、
自分自身の訓練によって、できるようになる。
毎日練習していけば、できるようになる。
続けていけば、普通にできるようになっていく。
たとえば列車に乗って窓を眺めれば、
景色は一瞬のうちに、次次と後ろに消え去って行く。
たとえて言うなら、そんな感じである。
しかしこれは、
「深い静寂」に入るための手段である。
深い静寂境で観想するためのプロセスである。
思考や想いを否定するという意味ではなく、
渦巻く雑念を払い除けるという意味である。
人間社会での思考は、人間社会の思考である。
人間社会の常識とか倫理とか法律とか経済とか、
そういったものを基準として思考が展開される。
あるいは人人の会話とか議論とか報道とか、
そういったものにも思考が影響されていく。
そしてそういった思考の日常に染まっていく。
しかしそれは人間社会の思考である。
限られた世界での思考に過ぎない。
だからそこを突き抜けなければならない。
「その範疇」の囚われから思考を解放し、
本来の自由自在の思考を取り戻すために、
そのために「静寂境」に入るのである。
静寂境で静聴すれば、
「その範疇」では聴こえなかった何かが聴こえる。
「その範疇」では気付けなかった何かに気付く。
聴こえてくるというか、入ってくる。
言葉のような何かが、心に入ってくる。
何かが入ってきて、何かが湧き上がる。
「その範疇」に囚われた思考を突き抜ければ、
どこからともなく未知の発想が湧き上がってくる。
新たな視座の発想が湧き起こるのである。
それはまるで未知との遭遇である。
それはどこまでも深く厳かな遭遇である。
これは宗教の話では無い。
巷で呼ばれる精神世界の話でも無い。
ごくごく「普通」の話である。
ごくごく普通の話だから、
身構える必要など微塵も無い。
身構えずに自然体で臨めば、
誰でも普通に、これを体験できるはずである。
毎日毎日、これを日課として実践していく。
続けていくことが肝心である。
どんなに忙しくても。
どんなに疲れていても。
そういう時には尚更にそれが必要である。
そういう時には尚更に実行すべきである。
たとえ10分でもいい。
たとえ10分でも、
やるとやらないとでは別世界である。
なおこの「静聴」の実践は、
「動物との対話」に於いても、
最も重大な要素である。
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:06:04::