**≪ 絶 望 の 熊 ≫**
 
・・・もちろん・・・
熊にも、心がある。
もちろん熊にも、深い感受性がある。
深い情緒に彩られ、深い感性に彩られている。
 
 
この映像の熊は、絶望の淵にいる。
自分の運命が閉ざされたことを知っている。
檻にかけた左手が、あまりにも切ない。
熊の全身が、絶望の淵に沈んでいる。
熊の哀願の声が、悲しく響く。
それはまさに、絶望の淵の哀歌である。
その左手が、その声が、その全身が、
熊の絶望を切切と訴えている。
いくら殺すと言えども。
いくら殺すと言えども、
「命」を絶望の淵に追い詰めて放置するとは。
それはまさに大問題である。
もしも殺すのなら、全く真逆の手段を選ぶべきである。
「尊い命」を、人間社会の都合で殺すのだから、
なおさらに「尊厳死」を考えねばならないのだ。
人間社会は駆除する山獣に対して、
一度でも「尊厳死」を考えたことがあるだろうか。
***** 南 無 華 厳 大 悲 界 *****
 
私は山で熊に出会う。
私は「熊除け鈴」も持っていない。
何も持たずに、いつも素手である。
熊が眼前2mまで来たこともある。
初めて熊が訪問した時には、
それは夜だったが、さすがに私も緊張した。
なにしろ、その「塊り感」が凄かったからである。
その黒く大きな塊りは、野性の悍威に満ちていた。
その野性の悍威に、私は圧倒されてしまった。
圧倒されたが、私はその場に立っていた。
胆を決め、手を前方に掲げて、
胆からの声で熊に呼びかけた。
そうしたら、熊は直前で止まった。
しばらく熊は私を眺め、
そして静かに引き返して行った。
その後も何度か山で熊と出会ったが、
いつも何事も起こらなかった。
いつも熊は、私をじっと見つめる。
そこで感じたことは、怖さではない。
そこで感じたものは、
野性の懸命と、野性の純情である。
熊は私の匂いを嗅ぎ、
私の気配を感じ取り、
そして熊は、去って行く。
何かを納得したように去って行く。
熊は無言で語っていた。
無闇に争いなど起こしたくは無いと。
木の実や果実を食べて、
平穏に生きていきたいのだと。
木の実や果実を食べて、
風の音を聴き、樹木の香りを嗅ぎ、
そして森に抱かれて眠れれば、
それだけで幸せなのだと。
だが果たして、
山に食料は充分にあるのだろうか。
ぎりぎりの中を耐えているように感じるのだ。
熊と別れる時にいつも、
心の底から「南無華厳」を唱える。
どんなに頑張って生きているかが、
どんなに純粋に生きているかが、
それが痛切に伝わってくるから、
だから一心に祈りを捧げる。
 
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:06:02::