**≪ある小さな雀の記録≫**
 
「ある小さなスズメの記録」という本を読んだ。
「クラレンス」と名付けられた小さな雀の生涯である。
片羽と片足に障害を抱えた、小さな男の子である。
生まれてすぐから、ある婦人と暮らした雀である。
その婦人と家族の契りを結んだ雀である。
十二年と七週と四日を、命の限りに生きた雀である。
自ら歌を独創し、見事に歌った雀である。
野生の小鳥たちとは別の環境に生きたが、
誇り高く独自の世界を切り開いた雀である。
十二年と七週と四日を、全身全霊で生きた雀である。
 
クラレンスと名付けたが、婦人は「ボーイ」と呼んだという。
婦人にとっては、まさに「私のボーイ」だったのだろう。
その「ボーイ」という言葉の響きが、切なく胸を打つ。
その言葉が婦人と雀の絆を、切切と現わしている。
本の文章は淡淡と綴られているが、
その陰にボーイへの溢れる想いが映っている。
ボーイがこの世を去った時の婦人の悲しみは、
この本には書かれていない。
だがこの本が書かれたこと自体が、
その悲しみの深さを物語っている。
この本から、ボーイへの祈りを強く感じるのである。
ボーイは死の間際に、
頭をもたげて婦人を呼んだという。
最後の力の一滴で、別れを告げたのだ。
別れを告げるボーイの姿は、
婦人の胸に永遠に刻まれただろう。
 
一羽の雀。。
一羽の雀に、物語がある。
それぞれの一羽の雀に、
唯一無二のドラマが隠されている。
野生の一羽の雀にも、そしてボーイにも。
この本は、その「ドラマ」を謳ったものだ。
人間と暮らした雀のドラマを謳ったものだ。
家族として人間と暮らした時に雀は、
野生状態とは異なる別の一面を見せた。
だがそれは、雀に元元あるものだろう。
野生状態では発現される機会が無いだけだろう。
発現される機会が無ければ、
鳥類観察者は、観察することができないのである。
婦人は、研究家が観察できない領域を知ったのである。
 
野生の命に隠された別の一面。
深い情緒や繊細な感性。
それを人間が目にすることは極めて稀だろう。
だが人間と「家族」として暮らした時、
野生の命はそれを表現する場合がある。
その表現を見て、多くの人は誤解することが多い。
「人間と暮らして野性を失ってしまったんだ」と誤解する。
野性を失ってしまったのではない。
野性は、そんな簡単に失われるほど曖昧なものではない。
野性には、人間の知らない別の一面が隠されているのである。
その別の一面を知ることは、人間にとって重大だと思う。
それを知るか知らないかで、
野生の命を見る目が、全く違ってくるからである。
だが実際には、家族として野生の命と暮らすことは至難に近い。
だから多くの場合に、それは実現できない。
しかし中には、それを実現した人たちが存在する。
その人たちの「記録」は、だから大変に重要だと言えるのだ。
 
「野生の命は、野生で生きてこそ」と言う人が多い。
確かにそれは理に叶っているだろう。
確かに自然環境は重要だし、躍動も重要である。
野生の命のエネルギーは大変に大きいから、
その大きなエネルギーを発揮させてあげることは重大だ。
そしてそれを発揮させてあげることは非常に困難である。
だがもし何かの理由で人間を家族と認め、
その人間との生活を選んだ野生の命がいたなら、
その命を強制的に山野に戻すことが最善策とは呼べないだろう。
その選択は、その命の「心境:真意」を無視していないか。
野生の命が「愛」に生きようとする姿を見ずに、
野性に秘められた「愛の表現」を軽視して、
山野に帰せばそれで一件落着と考えるならば、
その発想はあまりにも寂しく思える。
野性は、普通ならば山野に帰りたいのである。
普通なら、人間との生活に魅力など感じないのである。
それなのに人間の元に留まる道を選ぶということは、
そこに「人との愛」が生まれたからである。
その宝のような野性の愛の表現を、
ただ「懐いた」としか見ないなら、あまりにも哀しい。
そこには、野性に秘められた海よりも深い情緒と感性を、
克明に観れる貴重な機会が隠されているというのに。
だがもちろん、「逆の場合」も要注意である。
野性の真意を無視して拘束生活を強要することである。
野性の表現の発揮をことごとく禁止した拘禁飼育である。
それは全く意義を持たない。
それは支配であり、そこには愛が存在しない。
そこには「野性の別の一面」など発現しないのである。
 
「ボーイ」は全身全霊で生きた。
野生の雀に微塵も劣らぬ野性で、
光り輝く命の炎を燃やした。
 
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:06:01::