** K E G O N **
***≪ 山 界 華 厳 ≫***
これまで、自分の感じた華厳を書いてきた。
だが感じたことを言葉に表現するのは本当に難しい。
それこそ言葉一つで誤解を招くことも多い。
人によって言葉の受け止め方が全く違う。
時には別方向の解釈をされることもある。
だから言葉に表現するということは賭けに等しい。
その言葉に賭けてみるしかないのである。
誤解されるかも知れない。
あるいは分かってもらえるかも知れない。
半分を誤解され、半分を分かってもらえるかも知れない。
どう読まれるかは、まるで見当がつかないのである。
だから表現は、ほんとうに難しい。
むしろ書かなければ、少なくとも誤解は起こらない。
書かなければ、何も起こらずに事なきを得る。
だがそれでは、華厳を知ってもらうことはできない。
だから言葉の表現に挑んでいくしかない。
己の文章が稚拙だということは百も承知しているが、
挑んでいれば、いつかは少しはましになるだろう。
だが書いているうちに虚しくなることがある。
言葉に現わせば現わすほど虚しくなっていく。
「・・・違うんだ・・・こんな世界じゃあないんだ!」
そのような気持ちになってくる。
「言葉には・・・できない!!」
その気持ちが、書く度ごとに湧き上がる。
野性禅の中で遭遇した景色は、言葉に変換できない。
変換すれば、どこかが不本意な表現になってしまう。
しかしそれでも書き挑むしかない。
挑んでいれば、いつかは巧みな表現になるだろう。
華厳の教説は膨大なボリュームである。
たとえ真相はシンプルでも、
そのシンプルな真相を人人に伝えるためには、
そのシンプルな真相を人人に理解してもらうには、
膨大な量の言葉が必要になってしまうのだろう。
本来ならば言葉にはできなかったのである。
しかしそれでもなお、言葉に現わしてくれたのである。
それでもなお言葉に現わそうとしてくれたことに、
ただただ感謝であり、ただただ感無量である。
1300年前に中国華厳宗第三祖「賢首大師」は、
「華厳は永遠に説き切れない・・」
「華厳は永遠に説かれ続ける・・」
・・・確かこのようなことを語っているが、
それでもなお華厳表現に挑み続けてくれたのである。
ところで華厳は、伝説に満ちている。
1800年前の仏教大成者「龍樹」が、
竜宮から華厳経を持ち帰ったという伝説もある。
だがあまりに途方もなく膨大な経典だったので、
ごく一部しか持ち帰れなかったという伝説である。
その頃は「摩訶不思議解脱経」と呼ばれていたようである。
華厳に説かれた途轍もない深秘の領域を、
高僧たちが人生を賭けて訳してくれた。
それは主に中央アジアの僧院で行なわれたようだ。
東西の文化が交流した砂漠のオアシス「コータン」で、
この摩訶不思議な経典は言葉に編纂されていったのである。
そしてそれが中国に渡り朝鮮に渡り日本に渡ったのである。
だが御存知の通り、中国や朝鮮ではその後に、
仏教が猛烈に弾圧され、長きに亘り壊滅的状態になった。
朝鮮国では「義湘:ウイサン」が海東華厳宗を興し、
弾圧前までは華厳信仰の厚い国だったようだが。
なお義湘大師もまた、伝説に包まれた高僧であった。
あるいは華厳は、西方にも渡った可能性があるらしい。
はるかギリシャやエジプト辺りにも伝わり、
独自の神秘思想が育まれた可能性もあるという。
ところで前述した「賢首大師」は、
中央アジアの家系の出身だと言われている。
はるばる「サマルカンド」から渡ってきたようである。
おそらくペルシャ人系である賢首大師が、
はるか中国の華厳宗第三祖となったのである。
その辺りにも、とても雄大なスケールを感じる。
因みに賢首大師と義湘大師は、
中国華厳第二祖の元で同期の間柄である。
義湘大師の方が、少し年上だったようである。
両大師はともに、華厳探求に己の全てを賭けた。
そして摩訶不思議な領域を実感していたようである。
それにしても、華厳を言葉で表現することは至難だ。
華厳は、どこまでも「実感」の領域である。
経典にも、そのように語られているのである。
そこに実感が無ければ、言葉はどこまでも虚しい。
そこに実感が無ければ、言葉は意味を持たなくなる。
そこに実感があってこそ、言葉も意味を帯びるのである。
実感不在の言葉の羅列は、本当に虚しい響きである。
だからこの自分も、いつも肝に銘じている。
常に実感を実体験していくことが本義であることを。
それを忘れたら華厳を忘れることだと、己を戒めている。
己で実感し、その実感を経典教義で再確認する。
己の実感があってこそ、教義が意味を持つのである。
実感不在の論議ほど、虚しいものはない。
それはどこまでも果てしなく虚しい。
私にとっての華厳は、いつもシンプルだ。
「目指す!」ということ。
どんなに苦しい状況でも、「目指す!」ということ。
たとえどんなに苦しい状況でも、
他者の境涯を想う優しさを持てるか?
その気持ちを持ち続けることを目指せるか?
ここで言う他者とは、あらゆる種族の命たちである。
あらゆる種族の命たちの境涯を想い、
あらゆる種族の命たちの心境を想い、
自分が苦境に立った時でも、その想いを持ち続けられるか?
どんな苦境の最中でも、それを目指せるか?
それを果てしなく目指すことが、私にとっての華厳である。
それを目指すことが、同時に「修行」となっているのだ。
それこそが最大の課題であり、最大の修行だと感じるのだ。
華厳には、いろんなことが説かれている。
いろんなことが説かれているが、どうも最終的には、
このことを「目指す!」ことに尽きるような気がする。
なぜ「このことを目指すこと」が重大なのかを明かすために、
多くの言葉で、いろんなことが説かれているのである。
だが最終的には、「目指す!」に尽きると実感する。
目指すか、目指さないか、そこが分かれ道である。
目指せば、その方向に進むのである。
もし心が本心で目指せば、
たとえ僅かであろうとも、その方向に進むのである。
もし心が本心で目指さなければ、
絶対にその方向には進まないのである。
私は「南無華厳」の一言に、目指す想いを込めている。
その一言に、目指す決意と覚悟を込めている。
私は山で野性禅に入り、そこで実感する毎日である。
山の命たちの境涯を想い、そして彼らの心境を想う。
私はこの山で、いつも華厳を感じている。
零下20度の白銀の冬でも。
残雪の春にも、深緑の夏にも、紅葉の秋にも。
熊と出会った時にも。
猪と出会った時にも、カモシカと出会った時にも。
フクロウの歌声を聞く時にも。
姿無き小鳥のさえずりを聞く時にも。
姿無き大鳥の羽ばたきを聞く時にも。
たとえどんな時でも、いつも華厳を感じてきた。
私の表現は「山界華厳」と呼ぶべきかも知れない。
だが華厳は大宇宙の華厳であり、
私の感じる山界華厳も、その中の世界である。
大宇宙の華厳の中の極微塵の世界であり、
同時に大宇宙の華厳そのものである。
熊の姿の中に、猪の姿の中に、カモシカの姿の中に、
大宇宙の華厳を確かに実感するのである。
山で感じた華厳を何かに記すことは、
この自分の重大な使命だと思っている。
山の鼓動を聴きながら、
山の命たちの鼓動を聴きながら、
今日も山界華厳の世界に生きる。
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:05:28::