**≪ 犬 の 心 境 ≫**
犬と暮らすには、犬との対話が絶対不可欠である。
いわゆる「躾:しつけ」の際にも、対話が不可欠である。
それ無しには、一歩も前には進めない。
進んだように錯覚しても、そこは歪んだ迷路である。
対話というと漠然としたイメージになりがちだが、
犬の心境を「感じる」ことが根幹である。
その犬の心を、この自分が「感じる」のである。
「感じる」ことを疎かにしたとき、犬との関係はどんどん歪んでくる。
「感じる」ために、己の全感覚を起動する。
いい加減な気持ちでは、「感じる」ことなどできない。
全感覚を起動させようと挑み続ければ、
普段眠っている感覚も目覚めてくる。
そしてだんだん研ぎ澄まされていく。
そしてどんどん「感じる」ようになっていく。
たとえば「犬との散歩」。
犬がガンガン引っ張るとき。
その犬の心境とは??
その犬は主人の言葉を聞いているのか??
聞く耳を持っているのか??
どこまでも無我夢中なのか??
その犬の「耳」は、どの方向を向いているのか??
そういった心境を知ることが重大である。
引っ張るからといって、
「引っ張る行為」だけに注目しても、解決にはならない。
引っ張る行為の禁止のために、
「強制首輪//チョーク:スパイク」などを用いても、
それは根本の解決にはならない。
力と力のぶつかり合いが続いてしまう。
「無我夢中」が「痛み」を上回れば、
そのような場合は、なおも引っ張るのである。
そしてまた「引っ張り合い」を制しようとすれば、
まさに引っ張り合いになってしまうのである。
ましてやリードの調練が初体験の犬に対して、
最初から「短いリード」で強制しようとすれば、
無理に無理が重なって、さらに無理がくる。
何事も段階があり、プロセスが肝心である。
最初は長尺手綱でリードを許し、大きな挙動を許し、
そして徐徐に短くしていく。私の場合は。
因みに、山では長尺手綱をそのまま使う。
長尺でも短尺でも、意思の疎通は同じである。
昔、調練場にいた頃は、
さまざまな事情の犬を迎えた。
飼主が散歩できないような犬もいた。
飼主を引っ張る。飼主の言うことを聞かない。
激情型の犬。落ち着きの無い犬。
強情な犬。過敏な犬。闘志旺盛な犬。
とにかくいろんな傾向性の犬がいた。
傾向性の強烈な場合には、プロセスが肝心である。
私は最初からリードを付けることは少なかった。
ドッグランの中に放す。自由にさせる。
リード手綱無しで、一緒に歩く。
一緒に歩き、一緒に走り、一緒に休む。
静かに落ち着いて、一緒に座る。
そうしてだんだん、徐徐に徐徐に、
手綱無しで、手綱有りと同様の行動に進んでいく。
手綱を付けると、途端に情動が激しくなる犬もいる。
その途端に、心に何かの反応が起きてしまうのだろう。
たとえばそのような犬の場合には、部屋の中で対座する。
部屋の空間の中で、静かに、じっと、対座する。
そして静かな沈黙の時間を共感する。
自分の心の沈静が犬に伝わり、
その犬の心の沈静が自分に伝わる。
そして無言で対話していく。
そういう時間を重ねる。
そしてだんだん、声で話しかけていく。
「声」に、どのように反応するか。
「声」に、どのように集中するか。
どのように反応し、どのように集中するかを、深く観ていく。
そして部屋の中で、細綱を付けてみる。
犬に細綱を付けたまま、それまでと同様に過ごす。
しばらくは、その手綱を手にしない。
そして自分は座ったままに、手綱を手にする。
座ったままに手綱を手にして対話を続ける。
そういう日日を重ねる。
そこで進展が見られたら、
ドッグランに移行して、手綱調練に入る。
長尺と短尺の両方で調練していく。
そしていよいよ、外界で実践を開始する。
およそだいたい、私はこんな感じで行なった。
もちろん、百頭いれば百の傾向性があり、
そのプロセスも百通りであり、絶対に一概にはできない。
あくまで「およそだいたい」の話である。
そしてこれは対話の、ごくごく一端に過ぎない。
日常のどんな場面にも、対話が隠されている。
犬達をグループで調練する日課もあった。
ドッグランに犬の集団を放す。
もちろん、相性を見た上での話である。
そこは猛犬と呼ばれる犬種が多かったし、
まさしく闘犬種もいたので、
もし闘争になれば尋常な怪我では済まなくなるからだ。
いや、怪我どころの話では済まなくなるのである。
だから相性を見るのだが、それでも唸り合い程度は起こる。
要するに、その場の空気は、かなり緊迫しているのである。
私は中央に立ち、彼らの目を見つめて、一頭一頭に念を押す。
全集中力で、犬達の目を見つめる。
犬達全員に、この私を注目させる。
注意散漫の犬がいたら、
その犬を指差し、その犬を大喝する。
そうやってその場の空気を徐徐に鎮静していく。
中央に立ち、注目させ、全員で沈静の時間に入る。
犬達は私の顔を見つめ、私の言葉を聴いている。
そのような、静かで厳かな時間が、重大なのである。
その時間を終えると、自由時間に移る。
犬達はダイナミックに存分に躍動する。
そして最後にもう一度、沈静の時間に入る。
これはつまり、犬達の「道場」であった。
「精神の姿勢」こそが、全ての根幹である。
それ無しには、対話も始まらないのである。
「落ち着く」ということ。
「集中する」ということ。
まずはそれを知らなければならない。
まずは犬達に、それを知ってもらうのである。
対話の時間を重ねていくと、犬は見違えるように変わる。
飼主の元で対話の機会が無かった犬達が、
対話を知ることによって変わっていくのである。
顔付きも変わる。挙動も変わる。
そして主人への集中力が格段に高まる。
言葉のニュアンスを鋭く察知するようになる。
「言語」としては分からずとも、
そこに隠されたニュアンスを察知するのである。
それは条件反応的な訓練とは別の世界である。
犬は対話を理解する。
犬は本来、対話世界に棲んでいる。
犬は本来、対話を切望している。
犬を条件反応的レベルの命だと決め付ければ、
犬は一生、葛藤の中で苦しむ生活となる。
葛藤に苦しむ犬の心境は、まことに悲しい。
犬の「条件反応の姿」しか知らない人は、
つまり犬を知らないということである。
犬の心の世界は、もっともっと深奥である。
犬の感性は、人人の想像よりも、
はるかに深く、鋭く、繊細である。
犬は「感性の塊り」と呼んでもいいくらいである。
だから犬の心境を感じるためには、
自分の感性を研ぎ澄ますことが重大である。
自分の感性が鈍っていれば、
犬の心境を感じることなどできないのである。
もし犬と暮らすのなら、
そのことを、よくよく肝に銘じておくべきである。
犬と暮らす上でのハイライトは、「感性の交感」である。
「感性の交感」を無視すれば、
いつまで経っても犬を知らずに終わる。
犬との対話とは、つまり「感性の交感」である。
「対話」については、手短に書くことはできない。
さまざまな場合があり、さまざまなプロセスがある。
さまざまな形があり、さまざまな段階がある。
だから今日の記事は、ごくごく一端に過ぎない。
対話については、過去記事に散りばめて書いてきた。
結構膨大な記事量になってしまったが、
もし興味あれば、少しずつ御覧戴きたい。
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:05:13::