**≪ 最 後 の 願 い ≫**
 
動物たちが、
もし死ななければならない時、
最後の願いを哀願する。
 
<<<やすらかに死にたい>>>
<<<どうかやすらかに死なせてください>>>
 
誰もが、その気持ちを分かるはずである。
自分をその立場に置き換えれば、
誰もが、そのように哀願するはずである。
 
だが、この重大至極の問題は、
なぜか人間に無視されがちである。
世間は「殺す:殺さない」には敏感だが、
「殺される命の、やすらかな死」には、未だに鈍感である。
自分をその立場に置き換えて「想像」する人が少ないのか。
大問題であるというのに。
 
たとえば、
極限まで飢えた母子牛がいたとして。
生き延びる可能性が微塵も無かったとして。
その時の母牛の願いは、ただひとつ。
「どうかこの子に、やすらかな死を与えてやってください・・」
「もうこの子に、これ以上の苦しみを与えないでください・・」
母だからこそ。
この世で最もその子を愛する母だからこそ。
だからこそ、その子牛の苦しみが分かる。
だからこそ、「やすらかな死」を哀願する。
死は、時には慈悲に姿を変えるのである。
母牛には、それが分かるのである。
母牛だからこそ、それが分かるのである。
 
ただ死を怖れるだけの人には分からないだろう。
ただ死を忌み嫌う人には分からないだろう。
ただ生存のみが正義だと信じる人には分からないだろう。
そのような人は、このような話を実感することはできないだろう。
他者の極限の苦痛を「生」だと眺めていられる人は、
生についても死についても、語る資格は無いだろう。
 
人間は家畜たちから、
途轍もない恩恵を享受してきた。
そして人人は「感謝」と口にする。
だがもし本当に感謝があるのなら、
「家畜たちの死の時」についても、
想いを馳せるべきである。
「家畜たちの生きる環境と死に方」について、
人間社会は真剣に考えるべきだと思うのだ。
 
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:04:29::