***≪救護の手段≫***
 
被災動物の救護。
救護の手段にも、いろいろあると思う。
何がその命に対する真の救護になるのか??
何が真に「命を助ける」ことになるのか??
さまざまな状況がある。
さまざまな場合がある。
そのさまざまなケースに於ける最善策を考えることが、
救護の重大な一面だと思うのだ。
「そこに目を向ける」・・・
「真剣に考える」・・・
それだけでも大きな前進だと思うのだ。
なにしろこれまでは、
被災地に於ける動物救護に、
目を向ける人が余りに少なかったのだから。
それを思えば、
「何が救護となるのかを考える」だけでも前進だと思うのだ。
少なくとも、無関心による放置とは別次元となるはずだ。
繋がれて餓死を待つ生き地獄からは救えるはずである。
 
救護の種類は、いろいろとある。
だがまずは、関心を抱いて貰うことである。
それすら無ければ、何も始まらない。
何も変わらず、延延と動物の悲劇が続く。
「きっかけ」が必要なのである。
視線を向けて貰うための「きっかけ」が必要なのである。
そこから、救護の手段を考える思考がスタートするのである。
ちょっとやそっとでは、人人は振り向かない。
そこに余程のインパクトが無ければ、
人人は視線を向けないのである。
だから「きっかけ」というのは、想像以上に難しいのである。
想像以上に難しく、想像以上に重大なのである。
そして今後、その「きっかけ」を元に、家畜たちの飼育環境を、
根本的に見直す意見が広まるかも知れない。
たとえ経済動物の運命だとしても、「その日」までは、
命としての尊厳が認められるようになるかも知れないのである。
 
命を助ける。
だが「命を助ける」手段は、いろいろある。
生体の存続が不可能な状況で「命を助ける」には??
生体存続以外に、命を助けるには??
そのようなことも、考えなくてはならない。
現実に、生体存続が許されない場合もあるだろうから。
現実に、それが不可能な状況もあるだろうから。
だがその時も、「命を助ける」ことを考える。
生体存続だけが「命を助ける」手段では無いのである。
分かりにくい話になってしまうが・・・・
本当なら延延と長い文章になってしまうのだが・・・・
そしてこれは、非常に誤解を招き易い問題なのだが・・・・
 
「命」を助けるということは、
その命の声を聴くということである。
その命が、何を望んでいるかである。
その命にとって、何が助けになるかである。
「生体」にとって、何が最大の苦難か??
まず、それを考える。
それは飢餓と痛覚である。
飢餓と痛覚こそが、最大の苦しみである。
今生では「肉体同伴」という特殊な条件で生きているから、
だから今生では飢餓と痛覚という特殊な苦難が伴うのである。
なぜ今生でその苦難が与えられるかは、今日は書かない。
それを書けば話が終わらなくなってしまうから。
いずれにせよ、生体にとっての苦しみを、
無視する訳にはいかない。
それを無視しての救護は、あり得ないのである。
それを無視すれば、救護では無くなるのである。
だから時には、生体の苦しみから解放するために、
生体の存続を終わらせることも、あり得るのである。
それが真の意味での「助け」になる場合もあるのだ。
「命を助ける」ということは、
生体を存続させることだけでは無いのである。
生体を終わらせて欲しいと哀願する命も、いるのである。
もはやそれしか、「助かる」選択が無い場合もあるのだ。
「助かる!!」ということは、
生体の存続だけでは無いのである。
その命にとっての「助かる!!」の声を聴くのである。
その声を聴くことが、助けることなのである。
その声を無視してはならない。
その声を無視すれば、助けるどころか拷問となる。
助けるどころか、自己満足の偽善になる。
だから全集中力で、命の声を聴くのである。
己の全感覚を起動して、命の声を聴くのである。
だが、その「命の声を聴く」ということが、無視されてきた。
無視するというよりも、その領域に気付かなかったのだろう。
そもそも、そこへの視座が全く無かったのだろう。
命の本当の声を聴く。
その命の本当の真意を知る。
これこそが重大である。
これこそが重大だが、これこそが最も至難である。
人間ならば、言葉を喋れるから支障は無い。
だが動物は、人間の言語を持たないのである。
だからこそ、「動物との対話」が必要となる。
だからこそ、「野性対話道」である。
 
どんなに貧しくとも、愛する主人と共に、
一緒に苦難を乗り越えていきたいと願う犬もいる。
主人と共に空腹に耐え、主人と共に明日を夢見る犬もいる。
だが、そのような境遇ばかりではない。
この世に誰一人の友も無く、
短い鎖に繋がれて餓死を待つ犬もいるだろう。
鼻輪を通されて綱に繋がれ、
身動きひとつできない状態で、
ただただ餓死を待つ牛もいるだろう。
餓死までの、長い長い拷問の時間。
その時間は、永遠にも匹敵するほどに長いだろう。
今生での肉体の苦しみ。
今生特有の、生体でのがんじがらめ。
そこからの脱出が、1%の可能性も無い時。
その命は、絶望する。
正真正銘の「絶望」である。
人間が気軽に口にする「絶望」とは別世界である。
動物たちの絶望とは、本物の絶望なのである。
なぜなら動物たちは、
ちょっとやそっとの苦難では絶望などしないのだ。
彼らの忍耐は、人間が足元にも及ばないほどなのだ。
動物たちが絶望する時、
それは正真正銘の本物の絶望なのである。
その生体としての絶望を、見抜かねばならない。
その命の本意を、見抜かねばならないのだ。
だが、どこまでも「生体の存続」を、命の尊厳と見る人もいる。
生体の存続こそが「生の正義」だと認識する人も多い。
そのような人は、つまり「尊厳死」を、決して認めないだろう。
そのような人が尊厳死を理解する時は、
自分自身が、究極の絶望を味わった時である。
自分自身が、極限の痛みと苦しみを味わった時である。
つまり自分自身で「実感」した時である。
その時以外には、
その人は尊厳死の意味が分からないだろう。
真の尊厳死が、真の意味で「命を助ける」ことになることを。
 
もちろん、生体として助けられる場合もあるだろう。
そのような場合には、全力で生体を助けるべきと思う。
生体としての苦痛を解消し、
その先ずっと生体としての尊厳が保障されるなら、
生体救護を選ぶべきと思う。
だがもしそれが叶わぬ望みであったなら、
尊厳死という選択しか、その命を助ける手段は無いだろう。
安らかな死が、その命を助ける場合もあるのである。
その命の声を聴けば、それが分かるはずである。
 
「今生」という言葉を使うと、
通説での輪廻転生とかを、思い浮かべるかも知れない。
だがこの地球上での輪廻が、命の旅では無い。
この地球上に限っての発想自体が、すでに視界が狭すぎる。
この世のスケールは、そんな小さなものでは無い。
そんな小さな枠には縛られないのである。
「命の旅」というのは、そんな小旅行では無いのである。
もっともっともっと、はるかに大スケールで旅するのである。
動物たちは、
人間から強いられた「生体地獄」から解放され、
本来の「命の旅」に旅立つのである。
本来の「学びの旅」に旅立つのである。
旅に苦難はつきものだが、
人間から強いられた地獄に較べれば、ずっと優しいだろう。
人間が強いる生き地獄は、学びの苦難からは懸け離れている。
 
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:04:14::