*** A N I M A L I A ***
 
≪ 動物の生涯 ≫
 
動物達はそれぞれに、今生で学んでいく。
いろんなことを。さまざまなことを。
肉食獣も草食獣も、それぞれに。
本来ならば、大自然の中で。
大自然に抱かれて。
 
風の音を聴き。
風の匂いを嗅ぎ。
せせらぎの音を聴き。
せせらぎの水の匂いを嗅ぎ。
夜露に濡れた草の匂いを嗅ぎ。
朝日を浴びた花の香りを嗅ぎ。
夕日に染まる木木たちの声を聴き。
夜のしじまにフクロウの歌を聴き。
そうして野生世界の過酷な日常の中にも、
大自然との、密やかな対話が隠されている。
ささやかな、安らぎのひと時が隠されている。
そして大自然が、いろんなことを教えてくれる。
大自然の精霊たちが、いろんなことを教えてくれる。
動物達は厳しい日常の中でも、学ぶ喜びに満ちている。
 
だが人間に囲われた動物は、どうだろうか。
その動物達の生涯は、どうようなものだろうか。
さまざまな場合があるだろう。
さまざまな環境があるだろう。
「ペット」については、これまでも書いてきた。
だが「家畜」たちの生涯は、どうだろうか。
 
家畜・・・つまり経済動物である。
利益のために飼われている動物である。
利益を生むために飼われる命である。
そういう運命の動物である。
そういう境遇の命である。
もし貴方が、そういう運命に生まれたら、どう想いますか??
そういう運命に生まれたら、運命を呪いますか??
それとも、その運命に耐えられますか??
 
利益を出すためには、
家畜の境遇などには構っていられないだろう。
家畜の心境などには構っていられないだろう。
だがその利益追求がエスカレートすれば、
飼育環境は、どんどん過酷になっていく。
なにしろ海外では「家畜工場」という言葉があるのだ。
もはや家畜は、「工場生産物」なのである。
もはや「命」として見られていないのである。
こんなに悲しいことがあろうか。
こんなに残酷な運命を背負わされるのか。
経済観点から見れば、それが正義だろうが。
人間社会にすれば、正義の経済活動なのだろうが。
 
なんのために生まれたのか。
なんのために生きているのか。
利益を生むために産まされた。
利益を出すために飼われている。
ただそれだけである。
それ以外の理由は何も無いのである。
それに対して、人間知性は、何を感じるのか。
それに対して、人間文明は、何を考えるのか。
せめてそこには、感謝があるのか??
そこには本物の感謝があるのか??
そこに心からの祈りが、あるのだろうか??
 
心からの感謝とは。
心からの祈りとは。
それは、その人自身が知っている。
その人自身が、誰よりも知っているのである。
もしそこに本物の感謝があるのなら、
人は相手の境遇に想いを馳せる。
もしそこに本物の祈りがあるのなら、
人は相手の心境に想いを馳せる。
どんな環境で暮らしているのか??
どんな心境で生きているのか??
必ずそこに、想いを馳せる。
自分の心を覗けば、一目瞭然である。
そこに感謝と祈りは、あるだろうか。
 
感謝!!と口にするのは誰にもできる。
感謝!!という言葉が氾濫している。
感謝!!という言葉が、免罪符になっている。
感謝!!の一言で、一件落着になっている。
だが、感謝!!と口にするならば、
家畜たちの境遇に、家畜たちの心境に、
想いを馳せて欲しい。
心の底から想えば、いろんなことが見えてくる。
感謝!!の一言では済まされなくなってくる。
 
今回の東日本大震災に於いても、
家畜たちが被災した。
もはやその命運は尽きようとしている。
それは言語を絶する惨状であろう。
凄絶な飢えの苦しみに耐えていただろう。
だが彼らの受難に対して、
世間が心を痛める様子は微塵も感じられなかった。
家畜の受難に想いを馳せる様子が伝わってこない。
日頃の生活で、これほど恩恵を受けているのに。
人人は家畜からの恩恵を堪能しているというのに。
これではあまりに酷い話である。
あまりに薄情というものだ。
救える救えない・・の話では無い。
救えない場合も多いだろう。
救えない事情もあるだろう。
だがせめて「何とかしてあげたい・・」という人情が、
できることなら何とかしてあげたい・・という温情が、
それくらいの気持ちは、あって当然だろう。
ところが、それすらも感じないのである。
世間のどこにも、そんな声が上がらないのである。
「動物どころじゃねえだろ!!」の一言で終わるのである。
あるいは家畜への同情ではなく、
「飼っていた畜産家」への同情に終わるのである。
これでは家畜たちの立つ瀬が無い。
これでは家畜たちが浮かばれない。
 
私自身は肉を食わない。
牛乳も買わない。玉子も買わない。
革の靴も履かない。ダウンジャケットも着ない。
できる限りに、家畜たちに負担を掛けたくないから。
だからせめて、自分にできることを実践している。
これくらいしか、今の私にはできない。
これくらいしかできないから、
せめて一心に祈っている。
ただ一心に、動物たちを祈っている。
 
だが私は、非肉食を他人に期待したりはしない。
なぜならそれは、その人の心境次第であるからだ。
「肉を食いたい!!」という気持ちに対しては、
どんな言葉も届かないのである。
その人自身が「感じる」まで、実感するまで、
どんな言葉も伝わらないのである。
だがその人自身が何かを感じた時には、
言葉は自ずとその人の心に入っていく。
 
生きている以上、我慢はつきものである。
我慢や忍耐が無ければ、生きてはいけない。
生きるというのは、そういうことである。
私は自分では、こう思っている。
「肉を食わないくらい、我慢の内には入らない」と。
そんなものが我慢なら、我慢とは一体なんなのかと。
あの黒熊でさえ、植物食である。
牙を持つ黒熊が、植物食である。
あの頑丈で怪力の黒熊が植物食である。
木の実や果実を食って、笑顔で満足しているのである。
それに較べて、格段に非力で小さなアゴと歯の人間が、
なんでこうも肉好きなのか不思議でたまらない。
その心境が、不思議でたまらないのである。
 
釈尊たちが肉を食わなかったのは、
食うべきでは無いと説いたのは、
このような未来になることが予見できていたからだろう。
それは、「いろんな意味での、このような未来」である。
「殺生戒」というのは、ただの戒律では無いのである。
ただの「戒律」と見れば、奥の本義が見えなくなるだろう。
その「奥の本義」は、果てしなく深い意味がある。
それは端的に「殺す」という意味に留まらず、
「尊厳を奪う」ことをも含めているはずである。
そして他者の尊厳を奪う行為が、
やがてこの世の調和を破壊していくと、
そのように暗示していると感じるのである。
釈尊がこの世を去る時、
森の全ての生きものたちが訪れたという。
全ての生きものたちが、別れを惜しんだという。
釈尊の教えは、人間だけのものではない。
全ての命たちが、釈尊の教えを慕っている。
 
ところで。
釈尊たちが托鉢の際に、肉が出されれば食しただろう。
そこでは断る理由が無いからである。
差し出した人は、釈尊たちを想って差し出したのだ。
そこには、何の他意も無いのである。
その純粋な気持ちは、受け取らねばならない。
そしてまた、そこに説法の「時機」は無い。
時機的に、無理が生じるのである。
そして命は、すでに「肉」と化してしまったのである。
その命の形見を、むざむざ捨てる訳にはいかないだろう。
そういった深く重い意味の中で、
心で読経しながら食ったのだと思う。
たとえ顔には現わさずとも、悲しみの心で食ったと思う。
理由をこじつけて肉を求める僧侶とは別世界なのである。
 
釈尊の真覚境そのものと言われる華厳。
人間には理解し難かったと言われる華厳。
それは大宇宙そのものである。
そして大自然そのものである。
そして大自然の命たちそのものである。
***** 南無華厳大悲界 *****
 
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:04:05::