Pray for Animals
***≪被災動物≫***
今回の東北被災に於いて、
動物たちもまた被災した。
だが動物たちの受難に対しては、
世間は非情だったようである。
全国の動物愛護者が送る救援物資は、
効率よく有効に活用されただろうか。
動物保護の連絡網は、
効率よく有効に伝達されただろうか。
結局、世情がその気にならなければ、
迅速な救助などできないと思うのだ。
世情が拒めば、救助など進まない。
愛護者だけが頑張っても、
そこには限界があると感じるのだ。
なにしろ「人間社会」なのだから。
いろんな横槍が入る。
連携が寸断されていく。
救助はどんどん遅れていく。
ますます活動は困難を増していく。
繋がれている犬は苦しみの果てに死ぬ。
逃れた犬は野犬呼ばわりされる。
ニュースでは野犬化とされているが、
飼犬は、そう簡単には野犬になれない。
それはタフな野犬ではなく、
失意の中で茫然と彷徨う犬である。
そういう事態になることは、
最初から明らかだったはずである。
だから迅速な活動が必要だったのに、
それを否定する世論があったということだ。
結局は世間の意識が、
動物救助を認めなかったということだ。
今回の被災を契機に、
動物飼養への意識の変化は起こるだろうか。
ペットの運命が結局はこのような結末ならば、
人間はペットを飼う資格が無いと思う。
人間はペットに「社会化」を要求しながら、
挙句の果てに最後は見捨てるのである。
ペットたちは人間を信じたからこそ、
社会化要求に応えてきたのである。
それなのに、信じた果てがこの仕打ちである。
「救える救えない」の問題では無い。
状況によっては救えない場合もあるだろう。
それはあくまでも状況次第である。
だが問題は、「意識」である。
「できることなら、救ってあげたい」
という憐憫の情が、有るか無いかである。
たとえ救えなくても、その情が有るか無いかである。
「動物など、どうでもいいだろ!!」 という意識と、
「できることなら・・・」 という意識とでは、
あらゆることが異なる別世界なのである。
もし世間の大半が「どうでもいいだろ!!」の意識だったら、
動物の受難はこの先も果てしなく続くだろう。
人間は動物から恩恵を受けてきた。
実にさまざまな恩恵を受けてきた。
動物たちは植物たちと共に、
大自然の調和を成し遂げてきた。
それによって人間は生きてこれた。
だがその大恩を忘れて動物を裏切る。
それが人間の本性なのか??
だとしたら人間は大自然の家族ではない。
人間は大自然の摩訶不思議を知らない。
未だに大自然は摩訶不思議世界である。
その前では人間の知力など比較にもならない。
だが動物たちは、その摩訶不思議を知っている。
動物たちに聞けば、それを教えてくれる。
だが人間は動物を蔑視して聞こうともしない。
動物からの貴重な伝言を、聞こうともしないのだ。
動物たちに全霊の祈りを捧げる。
夜の山で朝の山で、
野性界動物寺として一心に祈る。
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:04:01::