***≪心観心境≫***
 
動物の心境を心観する。
動物の心境は、観察だけでは分からない。
観察を超えて、心眼で心観する。
このような概念は、馴染みが無いかも知れない。
だが本当は、最も重大な領域なのである。
最も重大で、最も難しい領域とも言える。
最も難しい領域だが、不可能では無い。
それは観る姿勢次第である。
それは観る心境次第である。
 
心に驕りがあれば心観できない。
そこに偏見があれば心観できない。
そこに先入観があれば心観できない。
固定観念を打破しなければ心観できない。
心観するには、まず己自身の心境が問題となる。
己自身の心境が心観の姿勢になれば、
自ずと動物の心境が観えてくるのである。
だからつまり、己次第である。
 
動物を「管理」するという思想が隆盛である。
人間社会に於いては、それも当然であろう。
よく見られる「ペットの社会化」という言葉も、
管理思想を元に生まれたものだろう。
そこに「愛護」という言葉が加わっているが、
その奥の正体は、管理思想であろう。
そして管理思想の母体は、旧来の動物学であろう。
旧来の動物学というのは、
基本的に「動物の心」を認めていない。
だが多くの人は、
そこにある「・・愛護・・」という言葉に惑わされる。
 
「野生動物保護管理」という言葉も、
そこに「保護」という言葉が入っているが、
実態は冷徹な管理思想である。
最も簡単に言えば、「数の管理」である。
生態系を数の管理で保全する思想である。
それによって人間社会を保護する思想である。
つまり動物の保護ではなく、人間の保護なのである。
それはあくまで人間側の視座であるから、
動物への酷薄な視座も潜んでいるのである。
だが多くの人は、
そこにある「・・保護・・」という言葉に惑わされる。
 
もし動物を心から愛する人が、
知らずにその管理思想の道に入ってしまったら、
きっと後悔するだろう。
「こんなはずじゃ無かった・・・」と悔やむだろう。
周囲とのギャップに葛藤することだろう。
だが今の時代では、
動物に関わる殆どが、その思想の影響下にある。
だから動物に関わる以上は、
その道を歩むしか無いのであろう。
そして知らず知らずに、染まっていくのだろう。
 
どこかのサイトで、残念な記事を見た。
どこかの県の野生動物管理組織が、
「熊」に対する大きな偏見を表明していたのである。
凶悪そうな風貌に描かれた熊が、
「人里ばんざい・・ここに居座ってやる!!」
・・・と宣言しているパンフを、
熊対策シンポジウムで配っていたそうである。
「ここに居座ってやる!!」 とは。
いったい、どんな視線で熊を見ているのだろう。
いったい、どこからそんな発想が湧いてくるのか。
動物の専門家を自負する者たちが、
まさかそんな発想を抱いていたとは。
まさに、驚きである。
ようするに熊を凶悪な敵に見立てて、
それを駆逐することが「正義」だと宣伝したいのだろう。
今や多くの人が、熊が里に降りる原因を知っている。
「山に食糧が無いから、やむなく里に降りてくる」
「飢えの果てに、危険を覚悟で降りてくる」
ということに、多くの人が気付いているのに。
それでもなお、学者は熊を敵に見立てたいのか。
子を想う母熊の胸中など、学者は眼中に無いのだろう。
因みにその野生動物管理組織は、
ペット社会化推進組織と関係が深いようである。
根幹の管理思想が共通しているのであろう。
 
いつも書いてきたが、
動物を「管理」する視座のままでは、
真の共生には一歩も近づけない。
それはもはや旧態依然の保守思想である。
真の意味での共生には、
新たな革新思想が必要とされるのである。
新たな視座の「共生心」が必要なのである。
その共生心を元に、動物の心境を心観していく。
動物の心境を心観できれば、
真の共生の姿が見えてくるのである。
 
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:03:31::