<<慈悲的情緒>>
心の平安は、何によって得られるか。
人それぞれの事情があるから一概には言えないだろう。
それぞれの場合で平安の概念も微妙に異なるだろう。
だから一概には言えないが、不動の根本がある。
その根本から離れれば、
真の平安を得られずに苦しい旅が続く。
心はずっと何かを求めて彷徨い続けるのである。
心の深奥が、苦しい苦しいと、叫び続けるのである。
その根本とは、慈悲を目指す姿勢である。
そこに「慈悲を目指す姿勢」が無ければ、
真の平安は永遠に訪れないのである。
心が慈悲を目指す姿勢となるまで、
延延と連綿と、その苦しみは続くのである。
どんなに金持ちになっても、
どんなに贅沢しても、
その深奥の苦しみは消えないのである。
慈悲を目指す姿勢とは、
つまり慈悲的情緒で生きるということである。
<そして慈悲的情緒は、いつか大慈悲へと昇華する>
慈悲的情緒とは、
つまり「やさしい心」である。
つまり「思いやる心」である。
ただしこれは、同族だけに対するものでは無い。
同族に対してだけならば、
それは慈悲的情緒とは言えないのである。
たとえば動物に対してもその心を持つことが、
それが「やさしさ」であり「思いやり」なのである。
それが慈悲的情緒なのである。
その心を忘れれば、自らが苦しむ結果となる。
どれほど苦しみ葛藤するかは、
他人からは想像もできないだろう。
もしその苦しむ人を真に思いやるならば、
その人に慈悲的情緒を知ってもらうことである。
それを知ってもらうことは困難かも知れないが、
もしその人を真に想うのなら、
なんとしてでも知ってもらうべきである。
それしか他に、苦しみから救う手立ては無いのである。
だが世の中の多くの人は、この真相を知らない。
知らないから、上辺だけの理解を示そうとする。
上辺だけの理解では、
その人をますます苦しませることになるのだが。
なぜそれが「根本」かは、話せば長くなる。
長くなるから、簡単に要約する。
この大宇宙は、大慈悲を核心に展開している。
そして常に、それを基準にした調和を目指している。
だからそこから外れようとすると、修整の働きが加わる。
その修整の働きに抗えば、必ず無理が訪れる。
その修整の働きに、自分で気付く人もいる。
だが自分では気付けない人もいる。
気付けなければ、どんどん無理が重なる。
心に無理が蓄積されていくのである。
大慈悲は、気付いてもらうために、「課題」を与える。
だが課題を放棄すれば、さらなる課題が待ち受ける。
気付くまで永遠に、課題が待ち受けるのである。
その課題と正面から向き合った時、
その時はじめて真の平安に向かうのである。
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山で野性禅に入っていると、
あるいは夜の山を歩いていると、
言葉がインスパイアされる。
言葉を思い浮かべるという意味では無い。
頭で言葉を考えている訳では無い。
どこからか言葉が入ってくるのである。
どこからかは分からないが、
ずっとそのようにインスパイアされてきた。
今日の記事も、これまで感応した言葉を元に書いた。
それにしても、文章に換えるのは、大変に難しい。
ちょっと表現を誤ると、誤解を招くからである。
だから文章と言うのは、とても難しいものである。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2011:03:05 ≫