≪ 「躾:しつけ」の概念 ≫
 
「しつけ」の概念は、人それぞれに違う。
百人いれば百人違うだろう。
人によって「何が躾か??」が、異なるのである。
だから実にさまざまな躾方法が、次次と生まれるのだろう。
 
その飼主が、犬に何を求めているのか??
人形か?? 玩具か?? ロボットか??
どこまでも絶対隷従の家来か??
それとも、終生の約束を誓った家族か??
飼主の意識によって、「躾」は千差万別になるのである。
だから犬の躾など、定義困難なのである。
定義困難だからこそ、根本を探らねばならない。
 
要はその飼主が、「犬に何を求めているか??」である。
しかしその「何を求めているか」は、実に重大問題である。
犬からしてみれば、それが≪運命の分かれ道≫なのである。
だから私は「何を求めていいものか・・」を考え続けた。
私は世間で言う「躾」に興味は無いのだが、
「何を求めていいものか」は、毎日毎日考えてきた。
それを考えるには、「犬」という命を知らなければならない。
犬という命を知るために、長い年月を賭けてきた。
そしてそこで知り得たことを、書いてきた。
 何を求めていいものか・・が分かれば、
おのずと「躾のスタイル」が生まれてくるはずだ。
そのスタイルは必然的に芽生えてくるだろう。
それこそは、求道の姿勢で研鑽しなければならない。
そしてそれが飼主の勤めであると思う。
 
いずれにしても、「躾」は手段に過ぎない。
家庭で共生するための、ひとつの手段に過ぎない。
だが「躾」自体が目的になってしまう飼主もいる。
躾の達成だけに意識が集中し、
最も肝心な「共に生きる!!」ことを忘れる飼主がいる。
それではもはや躾ではなく、「管理」である。
管理生活では、犬との絆など結べはしない。
その人はついに「犬」を知らずに終わるだろう。
 
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:02:28::