<2011年1月23日>

毎日毎日、保護された犬猫の記事を見かける。

犬猫ばかりではない。最近はウサギも多いと聞く。

なんで捨てるのか??と口を揃えて人は言う。

だが捨てる飼主は、そもそもペットを命と見ていない。

命と見なければ、なんだってできるのだ。

そもそも命と見ていれば、捨てることなどできないのだ。

だからそんな飼主に「捨てることだけは止めてください!!」と頼んだところで、

その飼主の元に留まったペットたちは、また生き地獄の毎日を送るだけである。

その命は、いったい何のために生まれたのか・・となってしまう。

ただ苦しむために生まれたのか・・となってしまう。


これまで、いろんな飼主と話してきたが、

その人の「ペット観」を変えることなど至難だと実感してきた。

なにをどう説明しようと、人の心の奥底など容易には変わらない。

本心からペットを命と見ていれば、相当な事情でも放棄はしない。

だが命と見ていなければ、いろんな理由をくっつけて放棄する。

普通は一頭か二頭だろう。大きな犬も少ないだろう。

制御不能なほどの猛犬だって少ないだろう。

多くは、ごく普通の犬が、一頭か二頭だろう。

それなのに捨てる。放棄する。処分を依頼する。

つまり最初から、飼い切るつもりなど無かったのだ。

命を看取る決意など、最初から微塵も無かったのである。

だがそのような人が、犬を飼い、猫を飼い、ウサギを飼う。

そのような人が、日本中に星の数ほど潜在している。

つまり問題は根本的である。その根本こそが最大の問題なのだ。

私の目指しているものは、その根本へのアプローチだ。

その根本に挑むことは至難だと分かってはいるが。


たとえば、ウサギ。

私もウサギと付き合ってきたが、犬と全く同様に付き合える。

本能や習性は犬と異なっても、その奥の領域は、犬と同じである。

その深い情緒と感性は、ウサギも犬も猫も、まったく一緒である。

ウサギの飼養に困難など何も感じない。

適切な住舎と適切な食事と飼主の豊かな愛情があれば、何ひとつ問題は無い。

もちろん広い小屋の方がいいが、ちょっと頑張れば自分で作れる。

いろんな段差を設けたり、上下空間も工夫すれば、かなり運動もできる。

食糧にしても、今はホームセンターで専用の食糧が廉価で売っている。

掃除にしても、工夫すれば実に容易である。

手を抜かなければ、いつでも清潔な環境を維持できる。

ウサギの遊びにしても、元気満満の大型犬の遊びを想えば、全く可愛いものである。

いくらでも存分に、誰でもウサギと遊んであげられるはずなのだ。

それなのに、ウサギと遊んでやる飼主は非常に少ないらしい。

多くの場合、ただ狭いケージに入れっ放しの、飼い殺し状態のようである。

なんでそうなってしまうのか・・・・・

つまりその飼主は、その状態を見ていても「平気」なのである・・・・・


犬を放棄し猫を放棄しウサギを放棄する。

ところが、その感覚は、世間に於いては、未だに普通感覚に近いのである。

放棄したところで、それは世間から異常感覚だとは認識されないのである。

むしろ動物保護家の方が異端視されてしまうのである。

これではペット放棄は、延延と続くだろう。

そして虐待も、延延と続くだろう。

放棄の手前で、虐待行為も起こり得るからである。

虐待で死亡するペットも、おそらく相当に多いだろう。

一方では、愛犬談義が花盛りである。

一方では、虐待と放棄のペット地獄である。

なんでこんなにも両極端なのか・・・まったく不思議な世の中である。


■南無華厳 狼山道院■