<2011年1月14日>

仏教を頭で考え続けても、何も見えてこないだろう。

理屈を並べ立てるだけでは、仏教の本領を知らずに終わるだろう。

そこに実感が無ければ、仏教は仏教で無くなってしまう。

現実の生活の中で実感していかなければ、学問の範疇で終わってしまう。

人生に仏教を生かしていかなければ、哲学思想の領域で終わってしまう。

それでは釈尊も悲しむだろう・・・・・


勉強は当然である。それは基本である。

もちろん、字を読むことだけが勉強ではない。

それぞれに見合った勉強方法があるはずなのだ。

だが、いくら勉強が重要と言えども、

理屈に埋没してしまうと、核心を見失いやすい。

核心を見失ったままで、延延と迷宮に彷徨うことになる。

だがそこに実感が伴えば、直観で核心方向に進んでいける。

実感があれば迷わずに、次次と明快に判断していけるのである。

ここで言うのは、己自身の実感である。

己自身が実感しなければ、己の仏教では無いということだ。


ところで、

その宗門の開祖の言葉だけを妄信する人が多いようだ。

開祖は確かに並並ならぬ修行を経た人物だと思うが、

己自身の実感無しに、丸呑みに妄信するのはどうかと思う。

もし仏教を心から愛しているなら、

その開祖の言葉だけでなく、ほかの高僧たちの言葉にも耳を傾けるべきだと思う。

その上で、新たに判断をしていくべきだと思うのである。

そうすると、

「ここは共通している」とか、「ここは参考になる」とか、「ここは違和感がある」とか、

自分にとっての新たな発見を見出すはずなのだ。

それ無しに開祖の残した言葉を信じるだけでは、それは「道」と言えるだろうか。

仏教は、時機によって説法の領域と説法の表現を変えてきた。

だからその時機に生まれた説法だけを聞いても、全体像が見えない場合もある。

だからそもそもその開祖も、いろんな時機の説法を参考にしたはずなのである。

その上で、己自身の解釈で、己独自の教説を纏め上げたのだと思うのだ。

そして「何を強調したいのか・・」は、開祖によって異なるのである。

仏教のどの部分を強調したいかで、いろんな宗門が生まれたのである。

ともすると、

「この宗門以外の言葉は外道である」というような排他主義の宗門もあるようだが、

そもそもその排他的思考の時点で、仏教からは遠ざかってしまうのである。

仏教は想像を超えて雄大であり大らかでありスーパースケールなのである。

そのスーパースケールを感じていれば、排他意識など湧きようが無いのである。

ただし、

「俺はこの部分を強調したいんだ!!これを聞いてくれ!!」

「俺は特にここが重大だと感じているんだ!!だから是非とも聞いてくれ!!」

・・・というような主張は構わないと思う。

だが「これだけが絶対だ!!ほかの説法など聞いてはならない!!」

・・・となれば話が歪んでくる。仏教から懸け離れてしまう。

・・・何もそんな意固地にならずとも、何も肩肘張らずとも、

・・・もし素晴らしい説法ならば、人人は自然に聞いてくれるのである。

確かにそれぞれの説法が「これが真理である」というようなニュアンスを込めているが、

それはその時代の人人に聞かせるための「方便」とも言えると思う。

その時代の人人の「段階」に合わせての真理なのである。

理解不能なことをいくら説いても意味が無いからである。

だから時代時代で仏教は姿を変えていくのである。

もし己自身が実感してくれば、そのような方便にも気付いてくるのである。


確かに「信」は、信仰の根本である。

だが「本物の信」と「妄信」とは、全くの別物である。

しかし「本物の信」とは、極めて至難の領域である。

そこに実感が無ければ、そこへと到達できないのである。

そこに熱い実感があればこそ、信に至るのである。

どこからか湧きあがる理屈を超えた実感が、信へと昇華するのである。

だから実感は重大である。だが実感は難しいことである。

難しいことだが、実感していくことこそ仏道である。

いくら仏教論議に夢中になったところで、実感が無ければ「ただの思考」である。

連綿と果てしなく、思考の迷路に彷徨うだけなのである。

仏教は人間の思考領域を超えているからこそ仏教なのである。

いくら議論を交わしたところで、思考領域を超えた次元には辿り着けない。


仏教はつまり、「感じる!!」ことの重大さを説いている。

仏教の願いは、「感じて欲しい!!」・・のである。

そして人人に、「慈悲的情緒」を持ってもらいたいのである。

人人が慈悲的情緒を持って生きれば、

世の中は自ずと変わってくると言っているのである。

それを分かってもらうために、いろんな表現で語ってきたのである。

なんで慈悲的情緒が重大なのか・・を語り続けてきたのである。

そして慈悲的情緒は・・・ やがて偉大な慈悲へと昇華するのである。


あらゆる者も、いかなる者も、「天上天下唯我独尊」である。

それぞれが、天上天下唯我独尊である。

それぞれが、この大宇宙で唯一無二の存在である。

それぞれが、唯一無二の個性に彩られている。

そのそれぞれが無限に相関し合い連関し合い、「全体」を成している。

すべてのそれぞれが全体に映り、すべてのそれぞれに全体が映り込んでいる。

だからそのそれぞれの尊厳は、あくまでもどこまでも同等である。

どれが尊くどれが尊くないなど、そんな発想は元から微塵も無いのである。

そんな発想が微塵も無いから、だから仏教なのである。

それを、実感していくのである。

それを己自身で実感していくのが仏道である。

「それを実感したところでどうなるのだ??」

「それを実感すれば世の中が変わるのか??」

・・・そのような意見も多いだろう。

だがそれぞれが実感し、それぞれが目指せば、世の中は確実に変わっていく。

「目指す!!」ことこそ、最大の重大事である。

目指さなければ、いつまでたっても何も変わらない。

目指せば「1%」の可能性が生まれる。

目指さなければ、永遠に「0%」で終わるのだ。

0%と1%は、完全なる別世界である。

だから仏教は、「目指せ!!!」と言っているのだ。

たとえどんな状況でも、たとえどんなに苦しくとも、

「目指すのだ!!それしか道は無いのだ!!」と叱咤激励しているのである。

実際、それしかほかに超越の道は無いのである。

どんなときでも、切り開き乗り越えるには、目指す以外に無いのである。

感じる。実感する。目指す。ひたすらその毎日である・・・・・

:::一即一切 極大極微:::

:::応観法界性 一切従心転:::

:::南無華厳菩薩道 南無華厳大悲界:::


山を歩く。独り歩く。

だが独りではない。いたるところに仏たちがいる。

仏たちの声が聴こえる。荘厳なメロディーとなって。

山の命たち・・おまえたちもきっと聴いているのだろう。

おまえたちが仏の声を聴いているのが分かる。

おまえたちは仏の声を聴きながら生きているんだ。

おまえたち・・・だからあんなに頑張れるのだろう・・・・

いつも、歩いていると、涙がこぼれ落ちる。

仏たちは、山の命たちの精一杯の生涯を知っているのだ。

ああ、仏たち・・・この子たちを、どうか護ってあげてください!!

・・・仏の声がこの胸に届く。

≪≪おまえ・・・命の限りに・・・・・・・≫≫


■南無華厳 狼山道院■