<2010年12月30日>
今年も終わる。
世間は年末年始である。
だが狼山には、年末も年始も無い。
毎日を迎えるのに、何の変わりも無い。
毎日毎日、新たな世界を迎えているから。
だから特別の日など無い。毎日が特別の日である。
毎日毎日を新たな気持ちで迎え、新たな力で乗り越える。
その連続である。ただただ、その積み重ねである。
毎日が正月であり、毎日が大晦日である。
毎日が誕生日であり、毎日が命日である。
私だけがそう思っているのではない。
犬たちも皆、そのように思い、そのように生きている。
だから毎朝の彼らの顔が、輝きに満ち満ちている。
毎朝毎朝、新たな輝きに満ちているのである。
何かに囚われて生きると、「囚われ人」となる。
そこには新たな力は生まれない。自由な発想は生まれない。
新たな力を奪われ、自由な発想を奪われ、重大な個性を失っていく。
だが本人は、囚われの迷路を彷徨っていることに気付かない。
そこが延延と堂堂巡りの迷宮であることに気付かない。
延延と同じ思考を繰り返し、延延と同じ場所に戻る。
どこに発見があるというのか。どこに発展があるというのか。
水は、絶えず流れていなければならない。
絶えず流れなければ、水は腐り、水は死ぬ。
この世のすべては、流れの中にいる。
それが大自然の摂理であり、大宇宙の摂理である。
その摂理を拒んで生きれば、どういうことになるか。
摂理の外側に生きていれば、内面は混乱し、崩壊へと向かう。
内面だけではない。それと直結して外面も急速に衰退する。
人間は、思考に支配されやすい。
何かが心に引っ掛かると、それに対しての思考が始まる。
発展的思考ならば意味は大きいだろう。
解決や発展を目指す思考ならば意義はあるだろう。
だが多くの場合に、それとは真逆の思考に陥る。
出口の無い空虚な思考に、莫大な負のエネルギーを注ぎ込む。
この空虚なマイナス思考が、どれほどに精神を害するか、知る人は少ない。
精神は、ひたすら失調へと突っ走っていくのである。
本人の自覚無しに、精神が暴走していくのである。
世の中にそういう人が増えれば、どういうことになるか。
世間はどんどん影響を受け、どんどん感化されていく。
世間意識そのものが、失調するのである。
負のエネルギーというのは、想像以上に怖ろしいのである。
マイナス思考というのは、本人だけの問題には留まらないのである。
なぜ多くの人間が、負の思考に囚われるのか。
それは、負の思考が好きだからである。
そこには、人間の嗜好を魅了する毒毒しくも甘い匂いが放たれているからである。
それが巧妙な「トラップ」であることを知らずに、喜び勇んで扉を開けるのである。
いくら好きだからといって、トラップに捕まれば必ず失調が待っている。
必ず失調が待っているのだから、捕まらないようにしなければならない。
そのためには、訓練が必要である。
毎日毎日、日常の中で訓練していくのである。
訓練無しには、負の思考のトラップから逃れるすべは無いのである。
訓練こそが、己を救う唯一の手段なのである。
頭の中の余計な妄念を放り投げていくのである。
どんどんどんどん、放り投げていくのである。
考えてもしょうがないことは、その考えがチラチラした瞬間に、打ち消すのである。
考え始めれば、またまた迷宮入りになるのだから、最初の段階で消火するのである。
考えても解決にならないことが明白ならば、その思考を即座に捨て去るのである。
余計な考えは即座に忘れ去る・・・生きる上で、これは実に重大なのである。
それをしないと、「妄執」という怪物に育ってしまうのである。
その怖ろしい執着思考を防ぐためには、遮断の訓練が必要なのである。
そういう訓練を、24時間365日ずっと続けるのである。
ずっと続けていけば、いつしかそれが習慣となり、己のスタイルとなる。
そうなれば、余計なことを考えなくなる。
余計なことを考える替わりに、発展的な思考に満たされる。
新たな力が漲り、自由自在な発想が溢れるのである。
訓練次第である。これはひとえに、己の努力次第である。
だが世の中には、訓練もせずに、ただ嘆く人が多い。
「苦しい。辛い。・・・だけど訓練なんか、もっと嫌だ!!」 という人が多い。
これではもはや、どうにもならない。人生への、正真正銘のギブアップである。
もはや誰がどうアドバイスしようが、効果は無いだろう。
これはどこまでも、「本人次第」の領域なのである。
野性たちは、なぜ強靭な生命力に満ちているのか。
彼らは、毎日を新たな覚悟で迎えているからである。
彼らの生涯は、毎日毎日が新世界である。
■南無華厳 狼山道院■
今年も終わる。
世間は年末年始である。
だが狼山には、年末も年始も無い。
毎日を迎えるのに、何の変わりも無い。
毎日毎日、新たな世界を迎えているから。
だから特別の日など無い。毎日が特別の日である。
毎日毎日を新たな気持ちで迎え、新たな力で乗り越える。
その連続である。ただただ、その積み重ねである。
毎日が正月であり、毎日が大晦日である。
毎日が誕生日であり、毎日が命日である。
私だけがそう思っているのではない。
犬たちも皆、そのように思い、そのように生きている。
だから毎朝の彼らの顔が、輝きに満ち満ちている。
毎朝毎朝、新たな輝きに満ちているのである。
何かに囚われて生きると、「囚われ人」となる。
そこには新たな力は生まれない。自由な発想は生まれない。
新たな力を奪われ、自由な発想を奪われ、重大な個性を失っていく。
だが本人は、囚われの迷路を彷徨っていることに気付かない。
そこが延延と堂堂巡りの迷宮であることに気付かない。
延延と同じ思考を繰り返し、延延と同じ場所に戻る。
どこに発見があるというのか。どこに発展があるというのか。
水は、絶えず流れていなければならない。
絶えず流れなければ、水は腐り、水は死ぬ。
この世のすべては、流れの中にいる。
それが大自然の摂理であり、大宇宙の摂理である。
その摂理を拒んで生きれば、どういうことになるか。
摂理の外側に生きていれば、内面は混乱し、崩壊へと向かう。
内面だけではない。それと直結して外面も急速に衰退する。
人間は、思考に支配されやすい。
何かが心に引っ掛かると、それに対しての思考が始まる。
発展的思考ならば意味は大きいだろう。
解決や発展を目指す思考ならば意義はあるだろう。
だが多くの場合に、それとは真逆の思考に陥る。
出口の無い空虚な思考に、莫大な負のエネルギーを注ぎ込む。
この空虚なマイナス思考が、どれほどに精神を害するか、知る人は少ない。
精神は、ひたすら失調へと突っ走っていくのである。
本人の自覚無しに、精神が暴走していくのである。
世の中にそういう人が増えれば、どういうことになるか。
世間はどんどん影響を受け、どんどん感化されていく。
世間意識そのものが、失調するのである。
負のエネルギーというのは、想像以上に怖ろしいのである。
マイナス思考というのは、本人だけの問題には留まらないのである。
なぜ多くの人間が、負の思考に囚われるのか。
それは、負の思考が好きだからである。
そこには、人間の嗜好を魅了する毒毒しくも甘い匂いが放たれているからである。
それが巧妙な「トラップ」であることを知らずに、喜び勇んで扉を開けるのである。
いくら好きだからといって、トラップに捕まれば必ず失調が待っている。
必ず失調が待っているのだから、捕まらないようにしなければならない。
そのためには、訓練が必要である。
毎日毎日、日常の中で訓練していくのである。
訓練無しには、負の思考のトラップから逃れるすべは無いのである。
訓練こそが、己を救う唯一の手段なのである。
頭の中の余計な妄念を放り投げていくのである。
どんどんどんどん、放り投げていくのである。
考えてもしょうがないことは、その考えがチラチラした瞬間に、打ち消すのである。
考え始めれば、またまた迷宮入りになるのだから、最初の段階で消火するのである。
考えても解決にならないことが明白ならば、その思考を即座に捨て去るのである。
余計な考えは即座に忘れ去る・・・生きる上で、これは実に重大なのである。
それをしないと、「妄執」という怪物に育ってしまうのである。
その怖ろしい執着思考を防ぐためには、遮断の訓練が必要なのである。
そういう訓練を、24時間365日ずっと続けるのである。
ずっと続けていけば、いつしかそれが習慣となり、己のスタイルとなる。
そうなれば、余計なことを考えなくなる。
余計なことを考える替わりに、発展的な思考に満たされる。
新たな力が漲り、自由自在な発想が溢れるのである。
訓練次第である。これはひとえに、己の努力次第である。
だが世の中には、訓練もせずに、ただ嘆く人が多い。
「苦しい。辛い。・・・だけど訓練なんか、もっと嫌だ!!」 という人が多い。
これではもはや、どうにもならない。人生への、正真正銘のギブアップである。
もはや誰がどうアドバイスしようが、効果は無いだろう。
これはどこまでも、「本人次第」の領域なのである。
野性たちは、なぜ強靭な生命力に満ちているのか。
彼らは、毎日を新たな覚悟で迎えているからである。
彼らの生涯は、毎日毎日が新世界である。
■南無華厳 狼山道院■