イメージ 1

<2010年12月28日> 写真は1988年。

私にとって大自然は師である。

そして動物たちもまた、我が師である。

大自然の申し子たちに秘められた深秘の力に、ただただ感服する。

生れ落ちた瞬間から死のその時まで、

生涯のすべてを全身全霊の命懸けで生きる彼らに、リスペクトを捧げる。

彼らから学ぶ。言葉に尽くせぬほどに大きな何かを学ぶ。

人間は、彼らの真の実力を知る機会を持たない。

彼らは人間の前では、その底力を披露したりはしない。

だが彼らが実像を披露しなくとも、私には彼らに秘められた力が分かる。

野生世界を生きる動物たちだけではない。

人間社会で飼われる動物たちも、我が師である。

野生世界は厳しいが、家畜の生涯もまた過酷である。

彼らは、そこがどんな世界であろうとも、全身全霊で生きるのである。

私には、彼らの胸中が分かる。どれほどの忍耐で生きているのかが分かる。

人の目には彼らの心境が映らなくとも、私にはありありと見えるのだ。

彼らは自分の望みを抑えに抑え、人間を立て、人間に尽くしてくれている。

人間からの制裁が怖いだけではない。

ただ制裁が怖いだけではなく、何故か彼らは人間を立ててくれるのである。

己の力を抑え、人間を立ててくれてきたのである。

彼らに対する恩義は、計り知れない。

人間は彼らから、天文学的に莫大な恩義を受けてきたのである。


前記事で「空手道」を書いた。

空手道には、いろんな側面がある。

身体操作・全身力・爆発力・反射力・・・・・

呼吸・間・間合い・見究・決断・・・・・

礼義・沈着・豪胆・忍耐・・・・・・・

そして空手道は禅の要素も大きい。

護身術や格闘技の側面だけではないのである。

そこには深遠な精神世界が潜んでいるのである。

それを突き詰めれば、大自然の呼吸に近づけると思う。

大自然の「静と動」に辿り着くと、思うのである。

そこはまさに「静中動・動中静」の世界である。

空手道を通して大自然界を感じることができると思うのである。

大自然の命たちは、そのような世界に棲んでいるのである。


「ヒクソン・グレイシー」という柔術家がいる。

格闘技ファンなら、知らぬ人はいないであろう。

ヒクソン氏の練習風景の映像を観たことがある。

彼は「彼独特のヨーガ」で鍛えていた。

全身を調整し、心身を調和させ、自在に己の身体を操っていた。

そして彼は寒気の中で滝に打たれたり、坐禅を組んだりしていた。

彼が大自然をリスペクトしている様子が、ありありと伝わってきた。

彼は柔術家というよりも、まさに修行僧のようだった。

彼の姿を見て、究めれば大自然の精神に直結していくのだと感じた。

※因みに彼は、野生の青カケス(鳥)と友達らしい。


だが格闘家の中には、大自然への敬意を忘れる人がいる。

たとえば自分の強さをアピールするために、動物を利用する者がいる。

「俺は大きくて強力な動物を倒せる・・俺は強い!!」とアピールするのである。

どれほど鍛えたかは知らないが、高慢無礼にもほどがある。

だいいち、「戦意の無い動物」を立たせて何の意味があるのか。

「最初から闘う意志の全く無い動物」を相手に、いったい何をするのか。

猛獣や大型草食獣の真の実力は、人間とは比較にならない。

彼らは、人間の想像を超えた次元の実力者なのである。

人間は別格の知能を持っている、と人は言う。

人間は別格の理性を持っている、と人は言う。

それに飽き足らず、今度は「人間が最強である」と謳うのである。

まったく野性を愚弄している。大自然への冒涜である。

大自然界の命たちの生涯が「正真正銘の命懸け」であることを知らぬとは。

たとえば、馬や牛がいる。

彼らは草食獣である。野生世界では猛獣に狩られる立場である。

だが家畜となった草食獣の馬や牛でさえも、秘めたる力を持っている。

馬と付き合ったことのある人なら、馬の力の片鱗を知っているはずだ。

気性の荒い牡馬の世話をする時、馬房の中で掃除をするだけでも緊張する。

踏まれただけでも足指は骨折する確率が高いし、蹴られれば死ぬ確率が高い。

馬房に入ってみれば、馬の潜在力の片鱗を肌身で感じることができるはずだ。

牛とて、同様である。

もし牡牛が本気で暴れれば、人間がどうこうできる次元ではなくなる。

「鼻輪」を通された牛ならば話は違うが、鼻輪が無ければ素手の人間など人形同然である。

鼻輪を通されたままに暴れれば、当然に鼻が壊れてしまうのである。

人間も鼻の中央の軟骨に鼻輪を通されて引っ張られれば、どれほど痛いかが分かるはずだ。

そうなれば、おとなしく引かれるままになるはずだ。

だからもし鼻輪の無い牡牛が本気で暴れれば、人間など近寄れないのである。

野生世界では、馬や牛は猛獣からの攻撃にも耐えなければならない。

もちろん倒されて食われる場合も多いが、耐え切って逃げる場合も多い。

あるいは同族の雄同士で力量を競う場合もある。

その場合の衝突は、想像を絶する衝撃力である。

あの体重で、あの骨量で、蹴り合い、衝突し合うのである。

人間がどれほど鍛えようが、比較の対象にもならない次元である。

本来の大型草食獣は、物凄いレベルの「耐える身体」を持っているのである。

だから時には、狩る側の猛獣も深手を負うのである。

踏まれることもある。蹴られることもある。体当たりされることもある。

骨にヒビが入る猛獣も多いだろうし、骨折することもあるだろう。

つまり狩る者も狩られる者も、両者共に壮絶な実力者なのである。

動物が本気の臨戦態勢に入れば、即座に分かる。

動物が本気の動きを発動すれば、即座に分かる。

そうなれば人間は、その場を一歩も動けなくなる。

動物の実像を知る人ならば、そんなことは分かるはずだ。

そして動物の実力は、条件によって全く違ってくる。

年齢。性別。発育状態。健康状態。運動状況。これらによって全く異なる。

そして「闘志」の有無。爪や歯牙の有無。これらによって全く異なる。

そして鎮静剤の類を打たれていないことが重大である。

たとえば、檻に閉じ込められて飼われた若齢のメスの猛獣と、

運動充分で闘志に溢れた壮年のオスの猛獣とでは、

その闘争力の点では何十倍もレベルが違うのである。

だがアピール者たちは、決してそういった部分を公表しないであろう。

いったい、動物を引き合いに出して、何の意味があるというのか。

大自然を知るならば、大自然への敬意を持つならば、決してそんな発想は湧かないだろう。

むしろ真逆に、動物たちを「師」と見るだろう。


プロレスラーが「黒熊」と対峙した映像を観たことがある。

黒熊には戦意は全く無かった。体格も大きくは無かった。

だが黒熊のいるフェンスに入った途端、その人は金縛り状態となった。

歴戦の格闘家だからこそ、熊の実力をはっきりと感知したのだろう。

熊は一度も攻撃しなかった。軽く様子見しただけである。

それでも、その僅かな接触で、その人は仰向けに転がされた。

その人は「なすすべが無い・・」ことを率直に認めた。

「対峙」は、それで終了した。それで充分であった。

その人は、実に正直な人だった。気負いも誇張も何も無かった。

そして「野性」を真摯に見つめていた。爽やかな人だった。


私も山で黒熊に出会う。

とにかく「塊り感」が凄い。

圧縮された力の塊り・・といった気配である。

熊に攻撃の意志は無いのだが、威圧感が凄い。

初めて熊が真近まで迫った時は、自分が幼児になったような気分だった。

熊の圧倒的な力感の前で、まざまざと次元の違いを思い知らされた。

その後も何度か熊と接近遭遇したが、何事も無かった。

2m半まで近寄ったこともあったが、熊は決して攻撃してこなかった。

その時、熊の胸中が伝わってきた。それは実に純粋で暖かかった。


強い人間も確かに居るだろう。

強さを求める人間も多いだろう。

だが驕りは、大自然に対して失礼である。

野性界の命たちの生涯を知れば、そんな高慢心は愚かだと分かるはずだ。

この世に生れ落ちても、生き延びる確率は僅かなのである。

過酷な状況ゆえに、幼獣期に死んでいく場合が多いのである。

そして老衰となれば、飢えの果てに、ただ独りで死んでいくのである。

あるいは食われる時を待ちながら死ぬのである。猛獣もまた同じに。

「全身全霊の命懸け」という言葉は、何の誇張でも無いのである。

そもそも、「最強」に何の意味があるというのか。

この世に強者は、いくらでも存在する。

実際の闘争の勝負の運命など、状況によっていくらでも変わる。

野性界の猛獣たちは、そんなことは知っている。

自分が一番強いなどと錯覚する猛獣などいないのである。

ただし、彼らが覚悟を決めた時の闘志は凄まじい。

人間とは「闘気」が違うのである。


写真は「狼:太郎」が1歳半の頃。まだ成長期の頃。1988年。

彼が3歳になった時、それまでとは別次元の貫禄が出現した。

その時を境に、いよいよ雄狼の本物の迫力が姿を現わしたのであった。

その頃は、「父」である私が、背筋が凍る毎日だった。

私に牙を向ける訳では無いのだが、その気配が尋常ではなかったのである。

その時ありありと、私は野性の底力を思い知らされた。

私は苦悩した。どうしていいのか分からなかった。

だが私は「愛」を信じた。そして我我は、絆を貫いた。

その緊張の期間を乗り越え、我我はさらなる世界の扉を開けた。

彼は自分の力を知っていた。そして私の力のレベルも知っていた。

だが彼は、私を「父」と立ててくれた。

自分の力を抑え、私を立ててくれたのであった。

そして私も、心の底から、彼をリスペクトした。


■南無華厳 狼山道院■