
私にとって大自然は師である。
そして動物たちもまた、我が師である。
大自然の申し子たちに秘められた深秘の力に、ただただ感服する。
生れ落ちた瞬間から死のその時まで、
生涯のすべてを全身全霊の命懸けで生きる彼らに、リスペクトを捧げる。
彼らから学ぶ。言葉に尽くせぬほどに大きな何かを学ぶ。
人間は、彼らの真の実力を知る機会を持たない。
彼らは人間の前では、その底力を披露したりはしない。
だが彼らが実像を披露しなくとも、私には彼らに秘められた力が分かる。
野生世界を生きる動物たちだけではない。
人間社会で飼われる動物たちも、我が師である。
野生世界は厳しいが、家畜の生涯もまた過酷である。
彼らは、そこがどんな世界であろうとも、全身全霊で生きるのである。
私には、彼らの胸中が分かる。どれほどの忍耐で生きているのかが分かる。
人の目には彼らの心境が映らなくとも、私にはありありと見えるのだ。
彼らは自分の望みを抑えに抑え、人間を立て、人間に尽くしてくれている。
人間からの制裁が怖いだけではない。
ただ制裁が怖いだけではなく、何故か彼らは人間を立ててくれるのである。
己の力を抑え、人間を立ててくれてきたのである。
彼らに対する恩義は、計り知れない。
人間は彼らから、天文学的に莫大な恩義を受けてきたのである。
前記事で「空手道」を書いた。
空手道には、いろんな側面がある。
身体操作・全身力・爆発力・反射力・・・・・
呼吸・間・間合い・見究・決断・・・・・
礼義・沈着・豪胆・忍耐・・・・・・・
そして空手道は禅の要素も大きい。
護身術や格闘技の側面だけではないのである。
そこには深遠な精神世界が潜んでいるのである。
それを突き詰めれば、大自然の呼吸に近づけると思う。
大自然の「静と動」に辿り着くと、思うのである。
そこはまさに「静中動・動中静」の世界である。
空手道を通して大自然界を感じることができると思うのである。
大自然の命たちは、そのような世界に棲んでいるのである。
「ヒクソン・グレイシー」という柔術家がいる。
格闘技ファンなら、知らぬ人はいないであろう。
ヒクソン氏の練習風景の映像を観たことがある。
彼は「彼独特のヨーガ」で鍛えていた。
全身を調整し、心身を調和させ、自在に己の身体を操っていた。
そして彼は寒気の中で滝に打たれたり、坐禅を組んだりしていた。
彼が大自然をリスペクトしている様子が、ありありと伝わってきた。
彼は柔術家というよりも、まさに修行僧のようだった。
彼の姿を見て、究めれば大自然の精神に直結していくのだと感じた。
※因みに彼は、野生の青カケス(鳥)と友達らしい。
だが格闘家の中には、大自然への敬意を忘れる人がいる。
たとえば自分の強さをアピールするために、動物を利用する者がいる。
「俺は大きくて強力な動物を倒せる・・俺は強い!!」とアピールするのである。
どれほど鍛えたかは知らないが、高慢無礼にもほどがある。
だいいち、「戦意の無い動物」を立たせて何の意味があるのか。
「最初から闘う意志の全く無い動物」を相手に、いったい何をするのか。
猛獣や大型草食獣の真の実力は、人間とは比較にならない。
彼らは、人間の想像を超えた次元の実力者なのである。
人間は別格の知能を持っている、と人は言う。
人間は別格の理性を持っている、と人は言う。
それに飽き足らず、今度は「人間が最強である」と謳うのである。
まったく野性を愚弄している。大自然への冒涜である。
大自然界の命たちの生涯が「正真正銘の命懸け」であることを知らぬとは。
たとえば、馬や牛がいる。
彼らは草食獣である。野生世界では猛獣に狩られる立場である。
だが家畜となった草食獣の馬や牛でさえも、秘めたる力を持っている。
馬と付き合ったことのある人なら、馬の力の片鱗を知っているはずだ。
気性の荒い牡馬の世話をする時、馬房の中で掃除をするだけでも緊張する。
踏まれただけでも足指は骨折する確率が高いし、蹴られれば死ぬ確率が高い。
馬房に入ってみれば、馬の潜在力の片鱗を肌身で感じることができるはずだ。
牛とて、同様である。
もし牡牛が本気で暴れれば、人間がどうこうできる次元ではなくなる。
「鼻輪」を通された牛ならば話は違うが、鼻輪が無ければ素手の人間など人形同然である。
鼻輪を通されたままに暴れれば、当然に鼻が壊れてしまうのである。
人間も鼻の中央の軟骨に鼻輪を通されて引っ張られれば、どれほど痛いかが分かるはずだ。
そうなれば、おとなしく引かれるままになるはずだ。
だからもし鼻輪の無い牡牛が本気で暴れれば、人間など近寄れないのである。
野生世界では、馬や牛は猛獣からの攻撃にも耐えなければならない。
もちろん倒されて食われる場合も多いが、耐え切って逃げる場合も多い。
あるいは同族の雄同士で力量を競う場合もある。
その場合の衝突は、想像を絶する衝撃力である。
あの体重で、あの骨量で、蹴り合い、衝突し合うのである。
人間がどれほど鍛えようが、比較の対象にもならない次元である。
本来の大型草食獣は、物凄いレベルの「耐える身体」を持っているのである。
だから時には、狩る側の猛獣も深手を負うのである。
踏まれることもある。蹴られることもある。体当たりされることもある。
骨にヒビが入る猛獣も多いだろうし、骨折することもあるだろう。
つまり狩る者も狩られる者も、両者共に壮絶な実力者なのである。
動物が本気の臨戦態勢に入れば、即座に分かる。
動物が本気の動きを発動すれば、即座に分かる。
そうなれば人間は、その場を一歩も動けなくなる。
動物の実像を知る人ならば、そんなことは分かるはずだ。
そして動物の実力は、条件によって全く違ってくる。
年齢。性別。発育状態。健康状態。運動状況。これらによって全く異なる。
そして「闘志」の有無。爪や歯牙の有無。これらによって全く異なる。
そして鎮静剤の類を打たれていないことが重大である。
たとえば、檻に閉じ込められて飼われた若齢のメスの猛獣と、
運動充分で闘志に溢れた壮年のオスの猛獣とでは、
その闘争力の点では何十倍もレベルが違うのである。
だがアピール者たちは、決してそういった部分を公表しないであろう。
いったい、動物を引き合いに出して、何の意味があるというのか。
大自然を知るならば、大自然への敬意を持つならば、決してそんな発想は湧かないだろう。
むしろ真逆に、動物たちを「師」と見るだろう。
プロレスラーが「黒熊」と対峙した映像を観たことがある。
黒熊には戦意は全く無かった。体格も大きくは無かった。
だが黒熊のいるフェンスに入った途端、その人は金縛り状態となった。
歴戦の格闘家だからこそ、熊の実力をはっきりと感知したのだろう。
熊は一度も攻撃しなかった。軽く様子見しただけである。
それでも、その僅かな接触で、その人は仰向けに転がされた。
その人は「なすすべが無い・・」ことを率直に認めた。
「対峙」は、それで終了した。それで充分であった。
その人は、実に正直な人だった。気負いも誇張も何も無かった。
そして「野性」を真摯に見つめていた。爽やかな人だった。
私も山で黒熊に出会う。
とにかく「塊り感」が凄い。
圧縮された力の塊り・・といった気配である。
熊に攻撃の意志は無いのだが、威圧感が凄い。
初めて熊が真近まで迫った時は、自分が幼児になったような気分だった。
熊の圧倒的な力感の前で、まざまざと次元の違いを思い知らされた。
その後も何度か熊と接近遭遇したが、何事も無かった。
2m半まで近寄ったこともあったが、熊は決して攻撃してこなかった。
その時、熊の胸中が伝わってきた。それは実に純粋で暖かかった。
強い人間も確かに居るだろう。
強さを求める人間も多いだろう。
だが驕りは、大自然に対して失礼である。
野性界の命たちの生涯を知れば、そんな高慢心は愚かだと分かるはずだ。
この世に生れ落ちても、生き延びる確率は僅かなのである。
過酷な状況ゆえに、幼獣期に死んでいく場合が多いのである。
そして老衰となれば、飢えの果てに、ただ独りで死んでいくのである。
あるいは食われる時を待ちながら死ぬのである。猛獣もまた同じに。
「全身全霊の命懸け」という言葉は、何の誇張でも無いのである。
そもそも、「最強」に何の意味があるというのか。
この世に強者は、いくらでも存在する。
実際の闘争の勝負の運命など、状況によっていくらでも変わる。
野性界の猛獣たちは、そんなことは知っている。
自分が一番強いなどと錯覚する猛獣などいないのである。
ただし、彼らが覚悟を決めた時の闘志は凄まじい。
人間とは「闘気」が違うのである。
写真は「狼:太郎」が1歳半の頃。まだ成長期の頃。1988年。
彼が3歳になった時、それまでとは別次元の貫禄が出現した。
その時を境に、いよいよ雄狼の本物の迫力が姿を現わしたのであった。
その頃は、「父」である私が、背筋が凍る毎日だった。
私に牙を向ける訳では無いのだが、その気配が尋常ではなかったのである。
その時ありありと、私は野性の底力を思い知らされた。
私は苦悩した。どうしていいのか分からなかった。
だが私は「愛」を信じた。そして我我は、絆を貫いた。
その緊張の期間を乗り越え、我我はさらなる世界の扉を開けた。
彼は自分の力を知っていた。そして私の力のレベルも知っていた。
だが彼は、私を「父」と立ててくれた。
自分の力を抑え、私を立ててくれたのであった。
そして私も、心の底から、彼をリスペクトした。
■南無華厳 狼山道院■