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<2010年12月12日>

我が家族たちは、非常に丈夫だ。

体調を崩すことなど一度も無いほどだ。

確かに自然の中で暮らしている。確かに運動量が充分だ。

だがそれだけでこんなに丈夫だろうか。

雨に打たれながらトレッキングする。

吹雪の中をラッセルしながらトレッキングする。

たとえ絶食の最中でも、ものともせずに躍動に挑む。

零下20度の真冬でも、いつでも元気満満である。

13歳のカンも、元気満満で運動している。

12歳の連中も11歳のジンも元気満満だ。

もちろん壮年期の連中も皆皆、元気満満だ。

みんな身体が頑健だから、もちろん皮膚病などにも罹らない。

頭数が多いから手入れもラフだが、みんな毛並みはピカピカだ。

毛艶はもちろんだが、毛に力が漲り、精気に溢れている。


おそらくみんな、「心気」の力に満ちているのだろう。

私は心気こそが、犬の健康を支える最大要素だと実感している。

心気こそが、身体に潜在する本来の機能を引き出してくれるのだ。

世間でよく言う「気」とは、心気のことだろう。

人人は気が「固有の何か」であると思い込んでいるようだが、

気とは、心を母体とし、心を発生源とした、心気のことである。

「気」とは、心が生み出すものなのである。

それをあたかも「術」のように捉えて、術理にばかり関心を抱く人が多いようであるが。

だが術理をどんなに探ろうが、心が母体であることを忘れれば、「気」など生まれない。

世間では術理によって操る「気」が話題になるが、

「気の力」を言うならば、野性獣たちの心気力に敵うはずが無い。

「正真正銘の命懸け」で生きている野性たちは、

まさに毎日を、「渾身の気の力」で生き抜いているのである。

その「心気力」無しには、野性界で生きられないのである。

だから野性界のみんなが、「気の達人」なのである。

野性たちにとって心気力は、生きる上での絶対要素なのである。


「心気力」は、心の深奥から湧き起こる気力である。

頭で発想する気力ではなく、己の根本から発生する「大きな気力」である。

「大自然と直結した気力」と言ってもいいかも知れない。

だがそれは、あくまでも「心」から生まれるものなのである。

術理でどうこうできる次元のものでは無いのである。

とことん「心」の有様にかかってくるのである。

<何と説明したらいいのか・・・非常に難しいが・・・・・>

たとえば、気の「丹田」という場所が巷では説明される。

だが、そこを意識したところで、気は現われない。

逆に、頭の知識でそこを知らなくとも、

「心」がその境地ならば、おのずと丹田が起動しているのである。

だからあえて、私は「心気」という言葉を使っているのである。


私は、狼や犬たちから、心気力を教えてもらった。

私は心気力の凄さを、この目で見てきた。

だから家族みんなで、その力を常に練磨していきたい。

その力を曇らせることなく、常に研ぎ澄ませていきたい。

だから私自身がそれを意識し、そして皆で互いに喚起してきた。

皆でそれを忘れることの無いように、いつも互いに念を押してきた。

もし私自身がそれを忘れていたなら、犬たちにも必ず影響を及ぼす。

親であり統率者である私がそれを忘れれば、群れの空気が停滞する。

群れの空気は停滞し、みんなの心気は停滞し、みんなの身体も停滞する。

身体が停滞すれば、身体の機能は衰退し、いずれ必ず失調となる。

だから毎日、私は犬たちに、渾身の心気で、気合をかける。

私の気合は、犬たちの心気と共振し、群れの空気が心気の塊りとなる。

そのとき犬たちの目は光り輝き、みんなが「その意識」になる。

みんなの身体から心気が立ち昇り、みんなの身体が心気に包まれる。

我我は、そうやって、頑強に生きてきた。

薬理に頼りっ放しでは、根本の解決には程遠いだろう。

医術に頼りっ放しでは、本物の頑強など得られないだろう。

最後は結局、自分の力なのだ。

己の力こそが、己を救うのだ。

我我は、常にそれを肝に銘じている。


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「心気力」は、想像以上の力を持っている。

だが、老いと寿命は、必ず訪れる。

だが、老いを嘆き、寿命を怖れていれば、ますます老化する。

たとえシワが増えようと、たとえ白髪が増えようと、ものともしない。

嘆き哀しめば、ますますシワが増え、白髪が増えるだけである。

寿命は寿命である。死ぬ時は死ぬ。

死に向かっているのだから、当然に老いるのである。

今生のこの世は、「バトンタッチ」なのである。

いつまでもバトンにしがみついている訳にはいかないのである。

天からの声に耳を塞いでバトンに執着すれば、必ず無理な事態を招くのである。

「おまえ・・もういいんだ・・・・ おまえ・・精一杯がんばったね・・・・」

「私はおまえを見つめている・・・・ 私がおまえを迎えにくる・・・・」

「いっしょに帰ろう・・・・ おまえの本当のふるさとに、いっしょに帰ろう・・・・」

・・・・全身全霊で生きた者には、必ずこの天の声が聴こえるはずなのだ。

老いることは、確かに哀しい。 別れは、確かに悲しい。

だがそれを怖れていたら、最も肝心な「精神」が老いてしまう。

精神を衰退させたら、それこそ「任務放棄」となってしまうのだ。

心の練磨、精神のあくなき進化が、今生での使命なのである。

たとえ肉体は老いようとも、精神には無限の可能性が開かれている。

肉体が老いればこそ、知ることがあるのだ。

肉体が老いればこそ、さらなる精神の進化に挑むのだ。

死のその時まで、今生での精神の進化が続くのである。

たとえ肉体は衰えようとも、その姿は光り輝いているのである。

「そんなこと・・無理でしょうが・・・・」 と言われるかも知れない。

だが私は、そのような姿勢をこの目で見てきた。

我が家族たちはみんな、そのように死んでいった。

それこそが「心気力」であった。

彼らは死の間際まで、心気力の真髄を見せてくれたのである。

いつも、「ほとけ」が迎えに来た。

全霊で生きた我が家族たちは、ほとけの光に抱かれて帰っていった。

胸が張り裂けるほどに悲しい。 森の中で慟哭する。

我が子との別れなのだ。これ以上の悲しみがあろうか。

だが、だからこそ、彼らの伝言を胸に刻む。

ただ悲しむだけでは、彼らに申し訳が立たない。

彼らの命の遺言を、この胸の一番深くに刻むのだ。


■南無華厳 狼山道院■