
我が家族たちは、非常に丈夫だ。
体調を崩すことなど一度も無いほどだ。
確かに自然の中で暮らしている。確かに運動量が充分だ。
だがそれだけでこんなに丈夫だろうか。
雨に打たれながらトレッキングする。
吹雪の中をラッセルしながらトレッキングする。
たとえ絶食の最中でも、ものともせずに躍動に挑む。
零下20度の真冬でも、いつでも元気満満である。
13歳のカンも、元気満満で運動している。
12歳の連中も11歳のジンも元気満満だ。
もちろん壮年期の連中も皆皆、元気満満だ。
みんな身体が頑健だから、もちろん皮膚病などにも罹らない。
頭数が多いから手入れもラフだが、みんな毛並みはピカピカだ。
毛艶はもちろんだが、毛に力が漲り、精気に溢れている。
おそらくみんな、「心気」の力に満ちているのだろう。
私は心気こそが、犬の健康を支える最大要素だと実感している。
心気こそが、身体に潜在する本来の機能を引き出してくれるのだ。
世間でよく言う「気」とは、心気のことだろう。
人人は気が「固有の何か」であると思い込んでいるようだが、
気とは、心を母体とし、心を発生源とした、心気のことである。
「気」とは、心が生み出すものなのである。
それをあたかも「術」のように捉えて、術理にばかり関心を抱く人が多いようであるが。
だが術理をどんなに探ろうが、心が母体であることを忘れれば、「気」など生まれない。
世間では術理によって操る「気」が話題になるが、
「気の力」を言うならば、野性獣たちの心気力に敵うはずが無い。
「正真正銘の命懸け」で生きている野性たちは、
まさに毎日を、「渾身の気の力」で生き抜いているのである。
その「心気力」無しには、野性界で生きられないのである。
だから野性界のみんなが、「気の達人」なのである。
野性たちにとって心気力は、生きる上での絶対要素なのである。
「心気力」は、心の深奥から湧き起こる気力である。
頭で発想する気力ではなく、己の根本から発生する「大きな気力」である。
「大自然と直結した気力」と言ってもいいかも知れない。
だがそれは、あくまでも「心」から生まれるものなのである。
術理でどうこうできる次元のものでは無いのである。
とことん「心」の有様にかかってくるのである。
<何と説明したらいいのか・・・非常に難しいが・・・・・>
たとえば、気の「丹田」という場所が巷では説明される。
だが、そこを意識したところで、気は現われない。
逆に、頭の知識でそこを知らなくとも、
「心」がその境地ならば、おのずと丹田が起動しているのである。
だからあえて、私は「心気」という言葉を使っているのである。
私は、狼や犬たちから、心気力を教えてもらった。
私は心気力の凄さを、この目で見てきた。
だから家族みんなで、その力を常に練磨していきたい。
その力を曇らせることなく、常に研ぎ澄ませていきたい。
だから私自身がそれを意識し、そして皆で互いに喚起してきた。
皆でそれを忘れることの無いように、いつも互いに念を押してきた。
もし私自身がそれを忘れていたなら、犬たちにも必ず影響を及ぼす。
親であり統率者である私がそれを忘れれば、群れの空気が停滞する。
群れの空気は停滞し、みんなの心気は停滞し、みんなの身体も停滞する。
身体が停滞すれば、身体の機能は衰退し、いずれ必ず失調となる。
だから毎日、私は犬たちに、渾身の心気で、気合をかける。
私の気合は、犬たちの心気と共振し、群れの空気が心気の塊りとなる。
そのとき犬たちの目は光り輝き、みんなが「その意識」になる。
みんなの身体から心気が立ち昇り、みんなの身体が心気に包まれる。
我我は、そうやって、頑強に生きてきた。
薬理に頼りっ放しでは、根本の解決には程遠いだろう。
医術に頼りっ放しでは、本物の頑強など得られないだろう。
最後は結局、自分の力なのだ。
己の力こそが、己を救うのだ。
我我は、常にそれを肝に銘じている。
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「心気力」は、想像以上の力を持っている。
だが、老いと寿命は、必ず訪れる。
だが、老いを嘆き、寿命を怖れていれば、ますます老化する。
たとえシワが増えようと、たとえ白髪が増えようと、ものともしない。
嘆き哀しめば、ますますシワが増え、白髪が増えるだけである。
寿命は寿命である。死ぬ時は死ぬ。
死に向かっているのだから、当然に老いるのである。
今生のこの世は、「バトンタッチ」なのである。
いつまでもバトンにしがみついている訳にはいかないのである。
天からの声に耳を塞いでバトンに執着すれば、必ず無理な事態を招くのである。
「おまえ・・もういいんだ・・・・ おまえ・・精一杯がんばったね・・・・」
「私はおまえを見つめている・・・・ 私がおまえを迎えにくる・・・・」
「いっしょに帰ろう・・・・ おまえの本当のふるさとに、いっしょに帰ろう・・・・」
・・・・全身全霊で生きた者には、必ずこの天の声が聴こえるはずなのだ。
老いることは、確かに哀しい。 別れは、確かに悲しい。
だがそれを怖れていたら、最も肝心な「精神」が老いてしまう。
精神を衰退させたら、それこそ「任務放棄」となってしまうのだ。
心の練磨、精神のあくなき進化が、今生での使命なのである。
たとえ肉体は老いようとも、精神には無限の可能性が開かれている。
肉体が老いればこそ、知ることがあるのだ。
肉体が老いればこそ、さらなる精神の進化に挑むのだ。
死のその時まで、今生での精神の進化が続くのである。
たとえ肉体は衰えようとも、その姿は光り輝いているのである。
「そんなこと・・無理でしょうが・・・・」 と言われるかも知れない。
だが私は、そのような姿勢をこの目で見てきた。
我が家族たちはみんな、そのように死んでいった。
それこそが「心気力」であった。
彼らは死の間際まで、心気力の真髄を見せてくれたのである。
いつも、「ほとけ」が迎えに来た。
全霊で生きた我が家族たちは、ほとけの光に抱かれて帰っていった。
胸が張り裂けるほどに悲しい。 森の中で慟哭する。
我が子との別れなのだ。これ以上の悲しみがあろうか。
だが、だからこそ、彼らの伝言を胸に刻む。
ただ悲しむだけでは、彼らに申し訳が立たない。
彼らの命の遺言を、この胸の一番深くに刻むのだ。
■南無華厳 狼山道院■