<2010年12月3日>

いくら「犬はペット」だからと言って、

酷い無礼が赦されることは理不尽である。

だが世間には、酷い無礼が氾濫している。

酷い無礼が続けば、犬だって抗議したくなる。

だが世間は、犬に抗議を赦さない。

抗議すれば、犬の運命はその場でアウトとなる。

よくよく考えてみれば、なんという不条理だろうか・・・・


なにしろ、いたるところに不条理が溢れている。

たとえば、犬が子供の「おもちゃ」となる。

犬が子供から何をされても我慢する様子を、自慢げに語る飼主も多い。

耳を引っ張られる。唇を引っ張られる。毛を引っ張られる。尻尾を引っ張られる。

足を踏まれる。背中に乗られる。蹴っ飛ばされる。叩かれる。などなどなど。

それでも子供を叱らずに、犬に我慢させる飼主も多いようだ。

それが犬の「躾」だと言う。「躾の成果」だと言う。

まったく、ふざけた世界である。

もし私に人間の子供がいて、そんな行為をしたら、即座に叱るだろう。

もしそれでも止めなかったら、子供が泣くくらいの大声で大喝するだろう。

そして子供に、「犬の立場」を言い聞かせるだろう。

そして「弱い立場の者を虐めてはいけない」と、諭すだろう。

弱い立場の者を虐めることは「卑怯」であり、卑怯は恥ずかしいことだと教えるだろう。


※子供を諭せない親など、親の資格が無い。任務放棄である。

子供は一番身近な大人から諭されて成長していくのである。

親の任務とは、子供の精神の成長を促すことに尽きる。

精神が成長すれば、おのずと知力も高まってくる。

だから第一義は精神成長なのである。勉強意欲など自発に任せればいいのである。

※子供は意外に「話を理解する力」を持っているのである。

子供は大人の話を理解できないと思い込む人が多いようだが、大きな誤解である。

こちらに会話力があれば、子供にも充分に話は通じるのである。

子供にも「道理」を理解する力は隠されているのである。

だが妙に子供の御機嫌を伺うような、迎合するような、そんな親が多いように感じる。

それでは親の存在価値など、大人の存在価値など、無きに等しい。

それだったら、同じ次元の友達同士と何ら変わらないではないか。

子供は、実に鋭い直感と観察眼を持っている。想像以上である。

だからそんな軟弱で裏腹な大人の本心を見抜き、心の中で軽蔑する。

同じく軽蔑されるのが、立場を利用して威張り散らす大人である。

子供は、その大人の「実力」を、鋭く見抜くのである。

尊敬できなければ、言うことなど聞くはずがない。聞かなくて当然である。

親の言うことを聞かないのだから、教師の言うことなど聞くはずがないのである。

<親の言うことを聞かずに教師の言うことを聞くなら、その教師は実力者である・・>

だがそれでも、聞かない割には親の思考の影響は強く受けているのである。

たとえ親を軽蔑していたとしても、どこかで影響を受けているのである。

だから知らず知らずに段段と、親に似た思考が育っていくのである。

それが精神を軽視した思考ならば、そのように育つのである。

「精神の成長」を疎かにするとどうなるか??世の中は必ず壊れていく。

<・・・・以上、余談である。>


たとえば世間で、犬が人を咬んだ事件があったとすると、

犬の専門家は、それを「咬み癖」「攻撃本能」として分析したがる。

だが実際には、「人間側の傲慢な無礼・無知による無礼」が原因の場合が多いと感じる。

世間は余りにも、動物に対する「最低限の礼儀」を無視してきたと思うのである。

誰もその最低限の礼儀に着目しなかったのである。眼中に無かったのである。

相手は、かりにも「命」なのである。

立場がどうであれ、尊い命なのである。

その命に対して無礼千万が続けば、何かが起こって当然ではないか??

そんな簡単な道理が分からないとは・・・・・


どんな種族にも「礼儀」が存在する。

礼儀とは、対話を生む第一義であり、そして対話を円滑にする第一義である。

つまり対話に於いて、常に礼儀は重大なのである。

対話が不在なら、相手を知ることもできない。

知ることもできずに協調もできない。もちろん共生などできない。

その対話を支えているのが、礼儀なのである。

つまり無礼ということは、対話の意思が無いということである。

そして協調の意思も共生の意思も無いということである。

異種族と一緒に暮らそうというのに「礼儀に無関心」ということは、根本的な矛盾である。

異種族との「礼儀」を模索しようともせずに協調を謳うなど、矛盾の至極である。

ところが世間は自らの矛盾に気付かずに、相手の行為だけを分析しようとする。

そんなスタンスでは、いつまで経っても「不測の事態」を防げないだろう。

事件が起これば大騒ぎするくせに、事件の予防にはまるで無頓着なのである。


礼儀にとっては、外面上の儀礼型など単なる入口に過ぎない。

儀礼型は確かに「表現」ではあるが、それは表層に過ぎない。

礼儀とは、「礼義」であり、「義」なのである。

心から敬意を払う義心を、「礼義:礼儀」と呼ぶのである。

だからいくら儀礼型を装っても、そこに義心が不在ならば「慇懃無礼」となる。

慇懃無礼は型は立派でも、当然ながら相手の心には届かないのである。


犬族には犬族の礼儀がある。

犬族の礼儀など考える必要は無いと一笑に付す人も多いだろうが、

だがそれでは犬族との真の協調など不可能なのである。それが事実である。

どんなに笑い飛ばそうと、事実は事実であり、覆すことはできないのだ。

人間には人間の礼儀があるが、犬族には犬族の礼儀がある。

一緒に暮らすというならば、双方共に相手方の礼儀を知ることが条件だ。

それが一方的であったなら、最初から協調を拒否しているということなのである。

互いに礼儀をわきまえる・・それが前提条件であり、そこから全てが始まるのである。


「犬族の礼儀」については、手短には書けないので、別の機会に譲る。

だが彼らの礼儀は、そんなに考え込まなくとも、直観で分かるはずだ。

私はその「直観」についてを、これまで連綿と書いてきたつもりである。

このブログは、その直観に関するヒントとして読んで戴きたかったのである。

理屈解説の記事なら、星の数ほど巷に溢れている。

だが命を相手にする時は、理屈でどうこうできる訳ではない。

だから直観の重大さと、直観を練磨するヒントを書いてきたのだ。

この私の真意に、気付いてくれた人はいただろうか。

何のために延延と書いてきたのか。

不思議に思う人も多かったと思うが、ヒントのつもりで書いてきた。

ただそれだけである。それだけのために、延延と書いてきた。

そしてその直観で、動物たちの心を知って欲しかった。

理屈を超えた心の世界を、知って欲しかったのである。


■南無華厳 狼山道院■