<2010年11月30日>

時機を待つこと、すなわち「待機」も、対話である。

野性の強い個体の場合には、それが実に重大である。

野性の強い個体を、短絡的に操ろうなどと考えれば、必ず無理が生じる。

野性の強い個体の馴致・調練に失敗すれば、取り返しのつかない事態を招く。

野性とは、それほどに「頑な」なのである。

その一途な頑なさは、人びとの想像をはるかに超えている。

逆に言えば、その頑なさが野性なのである。

その頑なさが、野性の命を支えてきたのである。

それを理解できない人は、決して野性に近づかない方がいい。

それを心から分かってあげることが、野性と交感する前提条件なのである。


18年前に、狼犬の子を引き取った。

確か、生後三ヶ月半くらいだったと記憶する。

約束の場所に着くと、飼主の代理の闘犬師と三人の若者が待っていた。

そのうちの二人が、手に白い包帯を巻いている。

<咬まれたな・・・> と直感した。

乳歯と言っても子狼犬の乳歯は違うはずだ。深い怪我になったはずだ。

<因みに「狼:太郎」の乳歯は、唖然とするほどに長大だったのだ・・>

闘犬師と挨拶を済ませると、若者が車からケージを出してきた。

ケージの中に子狼犬が入っていた。

ただしそのケージは、針金で厳重にグルグル巻きにされていた。

<???そんなに獰猛なのか???>

さっそく私は、その針金を解きにかかった。

皆さんが私の行動を、食い入るように見ている。

針金を解き終わった。そしてケージの天部を開けた。

子狼犬を見つめ、一瞬後に、彼の胴体を両手で抱えた。

自分の車まで歩き、そして彼を後部座席に乗せた。

すぐさま私も車に乗り、家に向けて発進した。

振り返ると、皆さんが丁重に見送ってくれていた。

後部座席の子狼犬は、大人しくしていた。

彼は不安で大人しくしている訳ではない。

もちろん不安は大きいだろうが、彼の場合は、何かの覚悟を決めていた。

野性特有の「覚悟」である。犬とは異質の世界である。

たとえどんなに不安であろうとも、たとえどんなに怖くとも、

それを凌駕する「何か」が無ければ、野性は野性として生きてはいけないのだ。

家にケージが無かったので、子狼犬はそのままに乗せたのだが、

とりあえず大人しくしていたので助かった。

そして家に着いた。これからが問題だ。

これからが問題だが、躊躇などしていられない。

躊躇は命取りになる。絶妙のタイミングを逃してしまうからだ。

そして当然ながら、全ての動作が「沈着・平静」である。

私は車を降り、後ろのドアを開けた。

そのまま車に身体を入れて子狼犬を両手で抱えた。

この「抱える」時の按配が、非常に感覚世界である。

「抱え方」ひとつで成否が分かれてしまうのである。

手の平と指先の感覚が、もっと言えば手首と肘と脇の感覚が、成否を決める。

問題は、「抱かれた側の心境」なのである。

抱かれた側の心境を心観しながら、抱き方を瞬間に調整していくのである。

これは非常に重大な項目だが、なにせ感覚世界だから自分で探るしかない。

言葉で現わすのは困難だが、

ひと言で言うならば、「瞬間の毅然の圧力」と「やさしい弛緩」を微妙に使い分ける。

本当は、抱く側の人間の腕力が大きい方がいい。

その方が、抱き方に余裕が生まれ、瞬時に微妙な対処ができるのである。

<もちろん相手の体重が軽ければ、非力の人でも支障は無いだろうが・・>

だから本気で動物と付き合う人生なら、筋力体力を高める努力も必要なのである。


私は子狼犬を抱えて家に入り、そして彼を放した。

すると彼は、警戒心に満ちた非常に険しい顔で辺りを眺めた。

そして猛然と家の中を周回し始めた。

私は部屋の中央に座った。

彼の疾走は延延と終わらない。

私はそのままの姿勢で座っていた。

彼が少し落ち着く。

だが、私が僅かに手を動かしただけでも、また疾走が始まる。

ほんの僅かに、1cmでも身体を動かせば、瞬間に反応するのである。

彼は、想像した以上に、異常な警戒心の持ち主だった。

よほどの何かがあったのだろうか?? それとも生来的な素質か??

いずれにしても「警戒心の塊り」であることが、今の事実である。

だが、今日は充分に彼を休ませなければならない。

私はそこに水と食事を置いて、別の部屋に引き上げた。

仕事もある。他の犬たちの世話と運動もある。そして彼との対話である。

一日が24時間では足りなかった。あっという間に一日が終わる。

寝る時間を削るしかない。他に方法が無いのである。

そのような生活が、果てしなく連綿と続いたのであった。


彼を名付けた。「ロウ」と命名した。

ひと口に「狼犬」と言っても、実に千差万別である。

狼特有の特徴が大きく現われる個体と、あまり現われない個体がいる。

狼の血の濃さで大きく変わるし、配合の犬の犬種や個性によっても全く変わる。

そして雄と雌とでは、まったく別世界である。

だから絶対に「狼犬」という言葉だけで判断することはできないのである。

ロウは、狼血が極めて濃かった。配合的には、ほとんど狼だった。

だが犬の血が僅かでも入ると、どこかに「狼とは違う気配」が現われる。

その違いは極めて微妙な場合もあるが、どことなく何かが違ってくる。

ロウも狼との違いはあったが、当然ながら犬とは全く異質の世界だった。

ところで人によっては、

野性獣は人に飼われると野性を失うと思うだろうが、野性自体は死なない。

ただ、表面からは野性が目立たなくなるだけである。

あるいは、野性を己自身で制御しているのである。

あるいは、その野性を凌駕する「何か」に目覚めたのである。

あるいは、それらが相乗して野性を覆っているのである。

野性とは「スピリット」である。

途轍もない長久の年月の、正真正銘の命懸けの歴史の結晶体なのである。

そんなに簡単に失われるものならば、そもそも野性とは呼べないだろう。

<ただし、肉体を整えるための運動は絶対に必要である・・>


毎日毎日、私は部屋の中央に座った。

ロウは延延と、家の中を疾走する。

軽軽と「三角跳び」で跳躍するので、窓ガラスが割れる寸前である。

割れれば危険なので、家中の窓ガラスを外して丈夫な鉄網に換えた。

つまり家の中は、外気と変わらぬ気温となった。

真冬は零下20度になるのだが、しかたのないことだった。

それから何ヶ月も、私は座り続けた。

そうして徐徐に徐徐に、ロウは落ち着いてきた。

段段に段段に、私に近付くようになってきた。

それまで、さまざまな体験を積んできたが、こんなケースは初めてだった。

狼の太郎との絆も、道程を経た賜物だったが、それとは感覚が異なるのだ。

異常な警戒心と興奮性。いったい何がそうさせるのか・・・・

だが、そんなことを考えても始まらない。

ただひたすら、己の直観を信じて実践するのみである。

迷いこそが大敵である。迷わないことが「力」を生むのだ。

そうやって、徐徐に徐徐に段段と、ロウは私を家族と認めるようになっていった。

立ち止まるようになった。座るようになった。伏せるようになった。

触れる距離まで近付くようになった。近付いて座るようになった。

触れるようになった。やがて全身を撫でることができるようになった。

・・ところで「座る」ということは、実は大変なことなのである。

・・座れば、咄嗟の逃げ足が遅くなる。

・・逃げる際の動作が増えるから、一気に不利となるのである。

・・だから座るということは、こちらを信用してくれたということなのだ。

・・人は気軽に犬に対して「座れ!座れ!」と言うが、

・・犬にとっては座ることとは、実は重大問題なのである。

こうなるまでに、確か一年くらいかかったと記憶する。

そうして2年目くらいから、一緒の部屋で寝るようになり、

その後は加速度的に家族となり、

私の身体にピッタリと寄り添って寝るようになり、

私の身体に頭を乗せて寝るようになり、

一緒に烈しくレスリングで遊ぶようになり、

私がロウの顔や耳を咬むと、ロウは「わざと」小さな悲鳴を上げるようにもなった。

本当はロウにとっては痛い内に入らないのだが、「わざと」声を上げるのだった。

つまりこれは、「遊びの演技」なのである。

彼はそうやって遊びを楽しんでいたのである。

だから私も、できる限りに彼の演技に応えて遊んだ。

家族以外には、ロウは絶対にそんな声など上げないのだ。

ロウのその演技の声は、私への愛慕の声だったのである。

毎晩毎晩、烈しく遊んだが、

ロケットのように私の顔を目がけて跳躍アタックしてくる時には、要注意だった。

もちろんそれも「わざと」なのだが、

何しろ凄いスピードなので、受け止めるのが大変なのである。

でもその時の彼の満面の笑顔を見ると、こちらも楽しくなってしまう。

ロウは私を驚かせる「わざと」の芝居を、何度も何度も楽しむのだった。


こうして我我は、真の家族の道を突き進んだ。

この後も、言葉に尽くせないほどの想い出を刻んだ。

このロウと、そして彼の魂の兄弟の「ルウ」の物語は、また改めて書く。


その子のためなら、待つことなど、なんで苦になろう。

ただ黙黙と、その子の選んだ時機を待つ。

時機を待つその道程も、すでに立派な対話なのである。


■南無華厳 狼山道院■