<2010年11月28日>
犬との対話は、型に嵌らない。
型に嵌れば、対話では無くなってしまう。
確かに「基本の型」は在るのだが、そこから縦横無尽に展開するのである。
基本の型を念頭に据えながらも、臨機応変に対応する柔軟さが必要なのである。
場面場面で、刻刻と対応が変化する。
時と場合によって、自由自在の対応となるのだ。
もし「型」を頭の知識で得ても、柔軟対応はできないだろう。
型を憶えるだけでは、その型を生かすことも発展させることもできない。
憶えるだけではその型は「死んだ型」であり、生きてはいないのである。
自分が型に嵌るということは、飼犬も型に嵌めるということだ。
自分が「知識の型の範囲内」でしか犬を制御できないから、
当然ながら飼犬を「知識の型の範囲内」に押し込めておくことになる。
飼主本人は御満悦かも知れないが、犬は一生を「歪んだ型の中」で終わる。
そしてその飼主は、歪んだ型の中の「仮の姿の犬」しか知らずに終わるのである。
犬に感情がある。犬に心がある。
犬には当然ながら、「喜怒哀楽」があるのだ。
そしてその感情は身体の表現となる。身体で話すのである。
だが多くの飼主は、犬のその「身体の表現」を嫌がる。
だから躾と称して、それを躾と勘違いして、徹底的に抑え込もうとする。
連綿と心の表現を禁止されれば、いったいどうなるか??
・・・考えなくとも分かるはずだ。
我が身に置き換えれば、そんなことは考えなくとも分かるはずだ。
犬はもはや自ら心を閉ざし、ただその中を彷徨うしかなくなる。
そして犬の全身は、全ての機能が停滞していくだろう。
心と肉体は、ダイレクトに直結しているからである。
命が「表現」を禁止されたら、生きている意味を限りなく失う。
だが人びとは意外なことに、犬に対して平気でそれを実行する。
いったい何の目的で犬を飼うのか、意味不明である。
だから「犬の表現」が嫌いで苦手な人は、犬を飼わない方がいいと思う。
飼えば必ず限界を迎えるだろうし、虐待や飼養放棄にも繋がるのである。
もちろん、「適切な躾教育」は全く必要である。
だが、犬を誤解した歪んだ型の強制は、犬の生命力を奪っていくのだ。
野性禅で交感力を磨く。
交感によって対話する。
対話によって犬を知る。
対話によって教導する。
対話によって対応する。
対話によって、場面場面で、臨機応変に対応する。
時に沈黙し。時に大らかに。時に厳しく。時に一喝し。
時に優しさで。時に烈しさで。時に存分に。時に抑えて。
時に縦横無尽に。時に制約の中で。時に大目に見て。時に断固として。
しかしその核心には、絆が生む「暗黙の了解」が隠されている。
暗黙の了解の元に、そこに潜む道理を理解の元に、臨機応変を分かち合う。
だがしかし・・・・
もし飼主が「気分」で犬に対応すれば、犬は混乱するだけである。
臨機応変とは、絶対に「気分」から発生してはならないのだ。
そもそも気分から生じたものを臨機応変とは言わないが。
だが、無意識の内に「気分」で対応する場合があるかも知れない。
だがそれは絶対に赦されないのである。それは「掟」なのである。
その掟を守れるか守れないかで、真のボスになれるかなれないかが決まるのだ。
犬たちは、そこにある不条理を鋭く感じ取る。
だが彼らは大らかな心で、文句も言わずに応じてくれる。
相変わらずに、その飼主を「主人」と見てくれる。
だが心の中は、悲しみに満ちている。
本当は、主人が「真の主人」であって欲しいのである。
犬は主人の「気分対応」の元で、葛藤と不安の毎日を送ることになる。
・・・そうならないために、飼主は常に己を戒めていかねばならない。
・・・それは大変なことだが、それが「ボス」の証なのである。
<もし相手が「野性の猛者」だったら、気分対応は文字通りの「命取り」になる・・>
我我家族の日常は臨機応変である。
毎日事情が変化するからである。山にも事情があるのだ。
「いいかい、今日は駄目なんだ・・・分かるね・・・」
「今日は奥へは行かないよ・・・さあ、帰るよ!!!」
「今日はみんな、思い切り走ろう!!!」
「いっぱい走ったね・・・みんな集合!!!」
・・犬たちは事情を察知して、私の指示を聞いてくれる。
「いいかい、今日はみんな、静かに寝るんだよ、いいね・・・」
・・犬たちは無言で私を見つめ、静かに横になる。
「今日はみんなで一緒に寝るよ!!!」・・・
犬たちは大喜びで、横になった私の身体の上に一斉に乗って場所取りする。
私の顔の近くで寝たがる子が多いから、顔めがけて殺到する。
顔も首も胸も腹も足も、どこもかしこも犬たちの体重で重い重い。
重くて寝ているどころでは無いのだが、彼らが待ちに待った瞬間だから我慢する。
私が寝入って寝返りを打てば、自然と彼らも脇にどくのである。
今の家族たちは世間で言うサイズの小型中型だから、どうってことない。
昔は大型の北極犬とも極大型の狼とも一緒に寝た。
両者ともに、尋常ならざる超豪胆の猛者である。
狼は、その巨大な頭を私の胸下辺りに乗せて寝たから、実に重かった。
海外の文献だと、狼が寝入りから醒める瞬間は危険だと書いてあったが・・・・
因みに、その雄狼の朝の挨拶は、立ち上がって私の肩に両足を乗せ、
その大きな口を開けて私の顔をその口で包み込むというものだった。
なにせ、立ち上がれば190cmを超えるくらいに大きかったのだ。
私は狼の口の中で彼の名を呼ぶ。そうすると彼は大喜びするのであった。
狼の牙は物凄く大きい。根元が見事に太く、頑丈にアゴに埋め込まれている。
その大きな牙が、私の顔を優しく包み込んでいたのである。
彼はその牙で、私への想いを伝えてくれていたのである・・・・
こんなふうに犬や狼と暮らすと、人によっては「危険行為だ!!」と思うらしい。
こんなふうだと、彼らの支配意識を喚起させて権勢症候群??? になると言うらしい。
だが我我の場合には、そんなことにはならなかった。
無礼講で一緒に寝ても、普段に戻れば途端に彼らは「わきまえて」くれたのである。
それが「特別の時間」であることを、彼らは理解していたのである。
なぜ彼らが理解してくれたのか??
それは普段の「対話」があったからである。対話の御蔭だったのだ。
臨機応変を、犬たちも心得るのである。
そして狼も、心得てくれたのである。
いつも試練の連続だった。
常に悪戦苦闘の年月だった。
だが彼らは、一度たりとも私を疑わなかった。
どんな時でも、私を父と信じてくれた。
どんな時でも、一緒に乗り越えてきた。
それが我我の間柄であり、それが我我の絆である。
我我は世間が考える幸せとは程遠い領域にいるだろう。
だから世間は、我我を不幸と呼ぶかも知れない。
世間の誰にも、我我の真情は分からないだろう。
ただ我我だけが知っている。我我が真に家族であることを。
そして我我は、未踏の「野性対話道」を突き進む。
人間と動物が運命を共にすれば、どんな世界が待ち受けるのか??
動物たちの心の世界は、いったいどんな世界なのか??
動物たちは、人間の心をどのように理解するのか??
人間と動物は、果たしてどこまで対話できるのか??
それを知ることが我我の重大な使命なのである。
我我はそのために出逢い、家族となったのだ。
私も犬たちも狼も、互いに未知の、新たな世界に足を踏み入れた。
それは私だけが望んだことではない。家族のみんなで選んだ道なのだ。
私は心の底から、彼らに感謝している。
彼らは家族である。そして野性対話道の同志である。
■南無華厳 狼山道院■
犬との対話は、型に嵌らない。
型に嵌れば、対話では無くなってしまう。
確かに「基本の型」は在るのだが、そこから縦横無尽に展開するのである。
基本の型を念頭に据えながらも、臨機応変に対応する柔軟さが必要なのである。
場面場面で、刻刻と対応が変化する。
時と場合によって、自由自在の対応となるのだ。
もし「型」を頭の知識で得ても、柔軟対応はできないだろう。
型を憶えるだけでは、その型を生かすことも発展させることもできない。
憶えるだけではその型は「死んだ型」であり、生きてはいないのである。
自分が型に嵌るということは、飼犬も型に嵌めるということだ。
自分が「知識の型の範囲内」でしか犬を制御できないから、
当然ながら飼犬を「知識の型の範囲内」に押し込めておくことになる。
飼主本人は御満悦かも知れないが、犬は一生を「歪んだ型の中」で終わる。
そしてその飼主は、歪んだ型の中の「仮の姿の犬」しか知らずに終わるのである。
犬に感情がある。犬に心がある。
犬には当然ながら、「喜怒哀楽」があるのだ。
そしてその感情は身体の表現となる。身体で話すのである。
だが多くの飼主は、犬のその「身体の表現」を嫌がる。
だから躾と称して、それを躾と勘違いして、徹底的に抑え込もうとする。
連綿と心の表現を禁止されれば、いったいどうなるか??
・・・考えなくとも分かるはずだ。
我が身に置き換えれば、そんなことは考えなくとも分かるはずだ。
犬はもはや自ら心を閉ざし、ただその中を彷徨うしかなくなる。
そして犬の全身は、全ての機能が停滞していくだろう。
心と肉体は、ダイレクトに直結しているからである。
命が「表現」を禁止されたら、生きている意味を限りなく失う。
だが人びとは意外なことに、犬に対して平気でそれを実行する。
いったい何の目的で犬を飼うのか、意味不明である。
だから「犬の表現」が嫌いで苦手な人は、犬を飼わない方がいいと思う。
飼えば必ず限界を迎えるだろうし、虐待や飼養放棄にも繋がるのである。
もちろん、「適切な躾教育」は全く必要である。
だが、犬を誤解した歪んだ型の強制は、犬の生命力を奪っていくのだ。
野性禅で交感力を磨く。
交感によって対話する。
対話によって犬を知る。
対話によって教導する。
対話によって対応する。
対話によって、場面場面で、臨機応変に対応する。
時に沈黙し。時に大らかに。時に厳しく。時に一喝し。
時に優しさで。時に烈しさで。時に存分に。時に抑えて。
時に縦横無尽に。時に制約の中で。時に大目に見て。時に断固として。
しかしその核心には、絆が生む「暗黙の了解」が隠されている。
暗黙の了解の元に、そこに潜む道理を理解の元に、臨機応変を分かち合う。
だがしかし・・・・
もし飼主が「気分」で犬に対応すれば、犬は混乱するだけである。
臨機応変とは、絶対に「気分」から発生してはならないのだ。
そもそも気分から生じたものを臨機応変とは言わないが。
だが、無意識の内に「気分」で対応する場合があるかも知れない。
だがそれは絶対に赦されないのである。それは「掟」なのである。
その掟を守れるか守れないかで、真のボスになれるかなれないかが決まるのだ。
犬たちは、そこにある不条理を鋭く感じ取る。
だが彼らは大らかな心で、文句も言わずに応じてくれる。
相変わらずに、その飼主を「主人」と見てくれる。
だが心の中は、悲しみに満ちている。
本当は、主人が「真の主人」であって欲しいのである。
犬は主人の「気分対応」の元で、葛藤と不安の毎日を送ることになる。
・・・そうならないために、飼主は常に己を戒めていかねばならない。
・・・それは大変なことだが、それが「ボス」の証なのである。
<もし相手が「野性の猛者」だったら、気分対応は文字通りの「命取り」になる・・>
我我家族の日常は臨機応変である。
毎日事情が変化するからである。山にも事情があるのだ。
「いいかい、今日は駄目なんだ・・・分かるね・・・」
「今日は奥へは行かないよ・・・さあ、帰るよ!!!」
「今日はみんな、思い切り走ろう!!!」
「いっぱい走ったね・・・みんな集合!!!」
・・犬たちは事情を察知して、私の指示を聞いてくれる。
「いいかい、今日はみんな、静かに寝るんだよ、いいね・・・」
・・犬たちは無言で私を見つめ、静かに横になる。
「今日はみんなで一緒に寝るよ!!!」・・・
犬たちは大喜びで、横になった私の身体の上に一斉に乗って場所取りする。
私の顔の近くで寝たがる子が多いから、顔めがけて殺到する。
顔も首も胸も腹も足も、どこもかしこも犬たちの体重で重い重い。
重くて寝ているどころでは無いのだが、彼らが待ちに待った瞬間だから我慢する。
私が寝入って寝返りを打てば、自然と彼らも脇にどくのである。
今の家族たちは世間で言うサイズの小型中型だから、どうってことない。
昔は大型の北極犬とも極大型の狼とも一緒に寝た。
両者ともに、尋常ならざる超豪胆の猛者である。
狼は、その巨大な頭を私の胸下辺りに乗せて寝たから、実に重かった。
海外の文献だと、狼が寝入りから醒める瞬間は危険だと書いてあったが・・・・
因みに、その雄狼の朝の挨拶は、立ち上がって私の肩に両足を乗せ、
その大きな口を開けて私の顔をその口で包み込むというものだった。
なにせ、立ち上がれば190cmを超えるくらいに大きかったのだ。
私は狼の口の中で彼の名を呼ぶ。そうすると彼は大喜びするのであった。
狼の牙は物凄く大きい。根元が見事に太く、頑丈にアゴに埋め込まれている。
その大きな牙が、私の顔を優しく包み込んでいたのである。
彼はその牙で、私への想いを伝えてくれていたのである・・・・
こんなふうに犬や狼と暮らすと、人によっては「危険行為だ!!」と思うらしい。
こんなふうだと、彼らの支配意識を喚起させて権勢症候群??? になると言うらしい。
だが我我の場合には、そんなことにはならなかった。
無礼講で一緒に寝ても、普段に戻れば途端に彼らは「わきまえて」くれたのである。
それが「特別の時間」であることを、彼らは理解していたのである。
なぜ彼らが理解してくれたのか??
それは普段の「対話」があったからである。対話の御蔭だったのだ。
臨機応変を、犬たちも心得るのである。
そして狼も、心得てくれたのである。
いつも試練の連続だった。
常に悪戦苦闘の年月だった。
だが彼らは、一度たりとも私を疑わなかった。
どんな時でも、私を父と信じてくれた。
どんな時でも、一緒に乗り越えてきた。
それが我我の間柄であり、それが我我の絆である。
我我は世間が考える幸せとは程遠い領域にいるだろう。
だから世間は、我我を不幸と呼ぶかも知れない。
世間の誰にも、我我の真情は分からないだろう。
ただ我我だけが知っている。我我が真に家族であることを。
そして我我は、未踏の「野性対話道」を突き進む。
人間と動物が運命を共にすれば、どんな世界が待ち受けるのか??
動物たちの心の世界は、いったいどんな世界なのか??
動物たちは、人間の心をどのように理解するのか??
人間と動物は、果たしてどこまで対話できるのか??
それを知ることが我我の重大な使命なのである。
我我はそのために出逢い、家族となったのだ。
私も犬たちも狼も、互いに未知の、新たな世界に足を踏み入れた。
それは私だけが望んだことではない。家族のみんなで選んだ道なのだ。
私は心の底から、彼らに感謝している。
彼らは家族である。そして野性対話道の同志である。
■南無華厳 狼山道院■