<2010年11月20日>
何日か前、零下10度近くまで下がった。
とうとう、この森の冬がやって来たのだ。
身も心も引き締まる。
この山に20年も居るというのに、全身が緊張感に覆われる。
この標高1300mでは、何しろ全てが凍ってしまうのだ。
除雪車も来ないから、積雪が続けばクロカン四駆でも走破が難しい。
四輪に鉄チェーンを巻こうが駄目である。除雪しかない。
スコップ一本で徹夜で道を開けることになる。二日懸かることもある。
車の燃料が切れればアウトなので、車内で暖を取ることはできない。
なにしろ車は鉄板とガラスで囲われているから、強烈に寒い。
全身が汗で濡れているから、それが冷えれば一気に体温を奪われる。
それでも少し休憩すると、あまりの疲れで、眠ってしまう。
そして寒さで目を醒まして、また除雪を始める。
食う物も飲む物も積んでない。だから喉が渇くと雪を食う。
しかし寒地のサラサラの粉雪だから、なかなか喉は潤わない。
ある程度除雪したら、脱出を試みる。
深雪道の脱出は微妙な技術なので精神を集中する。
タイヤのライン取りを僅かでも誤れば、さらなる深みに嵌ってしまうのだ。
そうなると、また余計にスコップ作業が増えてしまうのである。
だからライン取りとアクセルのタイミングに全神経を集中させる。
新雪の下は鉄のように凍結した轍が隠れているから、一筋縄ではいかないのだ。
もし脱出が成功の暁には、大万歳だ。本当にうれしい。
毎年毎年そういう冬を経験してきたのだが、新たな冬に、新たに緊張する。
いよいよ私も犬たちも、また冷凍庫の中で暮らす毎日を迎えるのだ。
※最も酷寒の時期は、やはり一月後半から二月前半の頃だ。
いつだか、零下25度近くまで下がった年もあった。
これが標高1500mを超えていけば、さらに格段に厳しい世界となる。
標高1800m近くで猛烈な吹雪に遭った時は、頭が氷漬けになるようだった。
そこから森に戻ってきた時には、暖かく感じたほどだった。
この森は、木木たちの御蔭で、あまり吹雪にはならないのである。
もう森は寒いが、車で寝る日も多い。
車で寝るのは慣れている。
事情で一年くらい、車で寝起きしていた時期もあった。
身体を伸ばしては寝れないが、車からは夜の森の様子が見える。
そして多少は夜空も見えるのだ。
犬たちの世話と運動を終え、野性禅を終え、車の中から夜の森を見つめる。
いつも書いてきたが、多くの「光」が現われる。
それは「まぼろし」だと疑う人が殆どだろうが、幻ではない。
それは犬たちも知っている。彼らも見ているのである。
「光」は、消えたり、また現われたりする。動いたりもする。
ゆらゆらと微妙に移動したり、突然に消えたりもするのである。
もちろん、よく言われる「人魂:火の玉」とも違う。
辺りに人はいないし、人家も墓地も何も無いのである。
要するに「人に関わる光」では無いと、私は直観する。
この森は人界とは離れた世界だと、痛感するのである。
森を降りると別荘地があり、さらにずっと降りると村里に入る。
村里から別荘地を抜け、さらに登っていよいよ森に入る頃、空気が変わる。
確かに、空気が変わるのだ。その辺りから、身が引き締まる感覚になるのだ。
そこは「結界」と呼ばれるものだと感じる。自然と厳かな気持ちになる。
そこから森に入る時、必ず姿勢を正す。いい加減な気持ちでは入れないのだ。
昼間でさえ、そのような気配に満ちている。夜になれば別世界である。
夜の森を犬たちと共に歩き、それが終われば独りで歩く。
もちろん「熊除けの鈴」などは付けない。そしていつも全くの素手である。
こちらが構えれば、相手も構える。我我は山の同志だから自然体で大丈夫なのだ。
山の動物たちとも出逢う。キツネが着いて来ることもある。実にかわいい。
イノシシとも逢うが、親は私と間合いを取る。暗黙の間合いだ。
子イノシシは、かなり近くまで来る。興味深いのだろう。実にかわいい。
クマにも何度も真近で出逢ったが、この夜の散歩時での接近遭遇は無い。
枝を踏み鳴らす重厚な足音を聞いたことはあるが、それがクマだったはずだ。
私を見つめていただろうが、おそらく遠慮して間合いを大きく取ったのだろう。
何年か前には、夜に我我の居留地にクマが来訪して真近で対面したが、
その後はクマも何故だか間合いを大きく取るようになったようだ。
クマと真近で対面する時、私は己の本性を知ることとなる。
圧倒的な野性の精悍を眼前にした時、己の本性を己自身が知るのである。
散歩から帰って車に入り、夜の森を見つめる。
夜の森に、精霊の光が瞬く。それを見ているのが好きだ。
ときどき、夜空にも不思議な光球が現われることがある。
世間では一概に「UFO」と呼ばれるようだが、UFOとは限らないと思う。
UFO以外にも、不思議な光球は出現するのである。
その夜空の光もまた、不思議な動きをする。変幻自在である。
変幻自在に移動し、そして摩訶不思議な光に輝くのである。
夜の森で、そうやって光を見つめながら、いつも祈っている。
全世界の動物たちのことを。他界した全ての動物たちのことを。
一心に祈りを捧げていると、身体が何かに包まれる。
それはきっと森の魂ではないかと、そう感じる。
森の冬は厳しいけれども、森の魂は我我を見守ってくれている。
そして我我にいろんなことを教えてくれている。
私も学んでいるし、犬たちも学んでいるのだ。
我我は森の魂と共に生きる。まだまだ学びは続くのだ。
■南無華厳 狼山道院■
何日か前、零下10度近くまで下がった。
とうとう、この森の冬がやって来たのだ。
身も心も引き締まる。
この山に20年も居るというのに、全身が緊張感に覆われる。
この標高1300mでは、何しろ全てが凍ってしまうのだ。
除雪車も来ないから、積雪が続けばクロカン四駆でも走破が難しい。
四輪に鉄チェーンを巻こうが駄目である。除雪しかない。
スコップ一本で徹夜で道を開けることになる。二日懸かることもある。
車の燃料が切れればアウトなので、車内で暖を取ることはできない。
なにしろ車は鉄板とガラスで囲われているから、強烈に寒い。
全身が汗で濡れているから、それが冷えれば一気に体温を奪われる。
それでも少し休憩すると、あまりの疲れで、眠ってしまう。
そして寒さで目を醒まして、また除雪を始める。
食う物も飲む物も積んでない。だから喉が渇くと雪を食う。
しかし寒地のサラサラの粉雪だから、なかなか喉は潤わない。
ある程度除雪したら、脱出を試みる。
深雪道の脱出は微妙な技術なので精神を集中する。
タイヤのライン取りを僅かでも誤れば、さらなる深みに嵌ってしまうのだ。
そうなると、また余計にスコップ作業が増えてしまうのである。
だからライン取りとアクセルのタイミングに全神経を集中させる。
新雪の下は鉄のように凍結した轍が隠れているから、一筋縄ではいかないのだ。
もし脱出が成功の暁には、大万歳だ。本当にうれしい。
毎年毎年そういう冬を経験してきたのだが、新たな冬に、新たに緊張する。
いよいよ私も犬たちも、また冷凍庫の中で暮らす毎日を迎えるのだ。
※最も酷寒の時期は、やはり一月後半から二月前半の頃だ。
いつだか、零下25度近くまで下がった年もあった。
これが標高1500mを超えていけば、さらに格段に厳しい世界となる。
標高1800m近くで猛烈な吹雪に遭った時は、頭が氷漬けになるようだった。
そこから森に戻ってきた時には、暖かく感じたほどだった。
この森は、木木たちの御蔭で、あまり吹雪にはならないのである。
もう森は寒いが、車で寝る日も多い。
車で寝るのは慣れている。
事情で一年くらい、車で寝起きしていた時期もあった。
身体を伸ばしては寝れないが、車からは夜の森の様子が見える。
そして多少は夜空も見えるのだ。
犬たちの世話と運動を終え、野性禅を終え、車の中から夜の森を見つめる。
いつも書いてきたが、多くの「光」が現われる。
それは「まぼろし」だと疑う人が殆どだろうが、幻ではない。
それは犬たちも知っている。彼らも見ているのである。
「光」は、消えたり、また現われたりする。動いたりもする。
ゆらゆらと微妙に移動したり、突然に消えたりもするのである。
もちろん、よく言われる「人魂:火の玉」とも違う。
辺りに人はいないし、人家も墓地も何も無いのである。
要するに「人に関わる光」では無いと、私は直観する。
この森は人界とは離れた世界だと、痛感するのである。
森を降りると別荘地があり、さらにずっと降りると村里に入る。
村里から別荘地を抜け、さらに登っていよいよ森に入る頃、空気が変わる。
確かに、空気が変わるのだ。その辺りから、身が引き締まる感覚になるのだ。
そこは「結界」と呼ばれるものだと感じる。自然と厳かな気持ちになる。
そこから森に入る時、必ず姿勢を正す。いい加減な気持ちでは入れないのだ。
昼間でさえ、そのような気配に満ちている。夜になれば別世界である。
夜の森を犬たちと共に歩き、それが終われば独りで歩く。
もちろん「熊除けの鈴」などは付けない。そしていつも全くの素手である。
こちらが構えれば、相手も構える。我我は山の同志だから自然体で大丈夫なのだ。
山の動物たちとも出逢う。キツネが着いて来ることもある。実にかわいい。
イノシシとも逢うが、親は私と間合いを取る。暗黙の間合いだ。
子イノシシは、かなり近くまで来る。興味深いのだろう。実にかわいい。
クマにも何度も真近で出逢ったが、この夜の散歩時での接近遭遇は無い。
枝を踏み鳴らす重厚な足音を聞いたことはあるが、それがクマだったはずだ。
私を見つめていただろうが、おそらく遠慮して間合いを大きく取ったのだろう。
何年か前には、夜に我我の居留地にクマが来訪して真近で対面したが、
その後はクマも何故だか間合いを大きく取るようになったようだ。
クマと真近で対面する時、私は己の本性を知ることとなる。
圧倒的な野性の精悍を眼前にした時、己の本性を己自身が知るのである。
散歩から帰って車に入り、夜の森を見つめる。
夜の森に、精霊の光が瞬く。それを見ているのが好きだ。
ときどき、夜空にも不思議な光球が現われることがある。
世間では一概に「UFO」と呼ばれるようだが、UFOとは限らないと思う。
UFO以外にも、不思議な光球は出現するのである。
その夜空の光もまた、不思議な動きをする。変幻自在である。
変幻自在に移動し、そして摩訶不思議な光に輝くのである。
夜の森で、そうやって光を見つめながら、いつも祈っている。
全世界の動物たちのことを。他界した全ての動物たちのことを。
一心に祈りを捧げていると、身体が何かに包まれる。
それはきっと森の魂ではないかと、そう感じる。
森の冬は厳しいけれども、森の魂は我我を見守ってくれている。
そして我我にいろんなことを教えてくれている。
私も学んでいるし、犬たちも学んでいるのだ。
我我は森の魂と共に生きる。まだまだ学びは続くのだ。
■南無華厳 狼山道院■