<2010年11月18日>
動物と暮らすとき、「声の力」は重大だ。
「声」のスピードは何しろ速い。
だから咄嗟のとき、緊急事態のときには、とりわけ声の力が重大なのだ。
だが、何かの支障によって声の出ない人もいるだろう。
その場合には、声力以外の、別の力が助けてくれる。
それは、支障を持った人の独特の力となる。
それについては、また別の機会に書くこととする。
特に、動きの速い動物と暮らすときには、普段から声の力を鍛えておくべきである。
普段から練磨していれば、咄嗟の時に威力を発揮するのだ。
たとえば犬に指示を発令するとき、場面に応じて、いろんな形がある。
身体のサインで示す場合もあるし、手綱を通じて知らせる場合もある。
そして声で伝える場合もある。特に集団の場合には、声力が力を発揮する。
たとえば犬が集団となって遊ぶ時など、とにかく動きが速い。
物凄いスピードで交錯して遊ぶ。紙一重で交錯するのだ。
そういう状況の中で、咄嗟に命令するとき、声のスピードが頼りとなる。
だがそこに「力」が無ければ、声は命令を果たせない。
なにしろ遊びに夢中だし、躍動の真っ最中なのである。
そのような状況でも犬たちの胸に声を届かせるためには、声の「力」が必要なのである。
ここで言う「声力」とは、単なる声の大きさのことでは無い。
大声で怒鳴ることが「力」では無いのである。
「声量」は重大だが、怒鳴る声量とはまるで異なるのだ。
まず、当然、「姿勢」である。
「姿勢」が悪ければ、何事も始まらない。
そしてまず、当然、「胆からの声量」である。
胆からの声を、喉の奥深くから胴体と頭蓋骨に響かせながら発声する。
つまり「全身」で発声するのである。喉だけでは声力など生まれないのである。
若い頃に声楽家から発声を習ったことはある。
空手時代は、もちろん「気合」の毎日であった。
それらの経験を活かしながら、山の中で独自に発声を鍛錬してきた。
そして犬たちとの暮らしの中で、その声力を実践で練磨してきた。
実際、その力は役に立った。幾多のアクシデントを防いできた。
その声に、すべてを託すのである。
その声に、渾身の力を集中するのである。
へたをすれば命に関わる事態となるからである。
そこには、一刻の猶予も無いのである。
大声の時もある。並声の時もある。小声の時もある。
声の大きさは違っても、いつでもそこに「声力」を込めるのである。
私は山に棲んでいるから、このようなことが実践できるが、
住宅街に住んでいる飼主は、なかなか難しい問題かも知れない。
なにしろ隣近所があるだろうから、力を込めた声も出せないだろう。
もっとも、一頭二頭なら、声力を使う機会も少ないかも知れないが。
<もちろん私も普段は無言の交感が多いのだが・・・>
だが、この「声力」のことは、頭の片隅に入れておいて欲しい。
動物と暮らせば、咄嗟の緊急事態が起こる可能性が潜んでいるのだ。
なおかつ、それが多頭数の場合には、飛躍的に確率が高まるのだ。
そのような事態を想定して、機会を設けて「声力」を鍛錬するといい。
ところで・・・ そこに「念」を込めなければ声力とはならない。
「念」と言うと、怪訝に思われるかも知れないが、「念」は存在する。
簡単に言えば、「強烈な想い」である。
だが、真に「強烈な想い」を発生させることは、なかなかに難しい。
しかも、一瞬の内に発生させなければならないのだ。
だから普段から、それを鍛錬していかねばならないのである。
「念の力」は、想像以上に凄いものである。
私はそれを、実体験の中で実感してきた。
もちろん「念の力」が及ばずに、離れた場所からの鎮静化が困難な場合もある。
だがそれでも、最悪の事態を免れることは可能なのである。
だから諦めずに、どんなときでも、全力で「念」を込めなければならない。
ところで「念」といっても、「邪念」というものもある。
この「邪念」の方が、人間にとっては容易に発生させることができる。
というか、世間は邪念だらけである。邪念発生が得意な人が多いのだろう。
「念」と「邪念」とは、まったく別世界のものである。
どれほど念を込めたと思い込んでも、
そこに僅かでも邪念が混じっていれば、「力」は生まれない。
だから「念の力」を生み出すには、「一心」にならねばならないのだ。
その「一心」になるために、普段から精神統一を鍛錬しておく必要があるのだ。
こう書くと、何やらとても難しく大変な毎日になってしまう・・と思われるかも知れない。
だが、これは「テクニック」の問題ではなく、「心の姿勢」の問題である。
そしてその「姿勢」は、慣れれば自分の自然体となる。
最初は大変かも知れないが、そこを越えれば「自然体」が待っている。
なお今回は「念」についても書いたが、誤解されると困るので一言申し添える。
「念」もまた、全体の中の「ひとつ」に過ぎない。
「念」だけを意識するのでは無く、
「念も含めた全体」であることを、忘れてはならない。
「念」だけに頼ろうとすれば、「念の力」は衰えるのである。
全身全霊で対応していくことが、すなわち「念の力」へと昇華するのである。
付記::
「声力」を真に発揮させるためには、
その声が意義を持っていなければならない。
頓珍漢なタイミングで声を発令しても、相手の胸には届かないのである。
場面の状況とタイミングを正確に把握してこそ、声が意義を持つのである。
そのためには「行動の理由」を知らなければならない。
その犬が、何故にそのような行動をしたか?? ・・・それが重大である。
百頭いれば、その行動の理由は百個ある。
犬それぞれに、それぞれの理由が隠されているのである。
だから当然、その犬の「個性」を見抜かなければならない。
心の個性と身体の個性である。心の傾向性と身体の傾向性である。
心の個性と身体の個性が相関しながら「その犬の個性」を織り成しているのである。
そしてその犬の個性によって、そこに「理由」が生まれるのである。
それを見抜くのである。瞬間に洞察するのである。
それを普段の日常から実践練磨していくのである。
そうすれば、咄嗟の時でも、瞬時に「理由」を知ることができる。
■南無華厳 狼山道院■
動物と暮らすとき、「声の力」は重大だ。
「声」のスピードは何しろ速い。
だから咄嗟のとき、緊急事態のときには、とりわけ声の力が重大なのだ。
だが、何かの支障によって声の出ない人もいるだろう。
その場合には、声力以外の、別の力が助けてくれる。
それは、支障を持った人の独特の力となる。
それについては、また別の機会に書くこととする。
特に、動きの速い動物と暮らすときには、普段から声の力を鍛えておくべきである。
普段から練磨していれば、咄嗟の時に威力を発揮するのだ。
たとえば犬に指示を発令するとき、場面に応じて、いろんな形がある。
身体のサインで示す場合もあるし、手綱を通じて知らせる場合もある。
そして声で伝える場合もある。特に集団の場合には、声力が力を発揮する。
たとえば犬が集団となって遊ぶ時など、とにかく動きが速い。
物凄いスピードで交錯して遊ぶ。紙一重で交錯するのだ。
そういう状況の中で、咄嗟に命令するとき、声のスピードが頼りとなる。
だがそこに「力」が無ければ、声は命令を果たせない。
なにしろ遊びに夢中だし、躍動の真っ最中なのである。
そのような状況でも犬たちの胸に声を届かせるためには、声の「力」が必要なのである。
ここで言う「声力」とは、単なる声の大きさのことでは無い。
大声で怒鳴ることが「力」では無いのである。
「声量」は重大だが、怒鳴る声量とはまるで異なるのだ。
まず、当然、「姿勢」である。
「姿勢」が悪ければ、何事も始まらない。
そしてまず、当然、「胆からの声量」である。
胆からの声を、喉の奥深くから胴体と頭蓋骨に響かせながら発声する。
つまり「全身」で発声するのである。喉だけでは声力など生まれないのである。
若い頃に声楽家から発声を習ったことはある。
空手時代は、もちろん「気合」の毎日であった。
それらの経験を活かしながら、山の中で独自に発声を鍛錬してきた。
そして犬たちとの暮らしの中で、その声力を実践で練磨してきた。
実際、その力は役に立った。幾多のアクシデントを防いできた。
その声に、すべてを託すのである。
その声に、渾身の力を集中するのである。
へたをすれば命に関わる事態となるからである。
そこには、一刻の猶予も無いのである。
大声の時もある。並声の時もある。小声の時もある。
声の大きさは違っても、いつでもそこに「声力」を込めるのである。
私は山に棲んでいるから、このようなことが実践できるが、
住宅街に住んでいる飼主は、なかなか難しい問題かも知れない。
なにしろ隣近所があるだろうから、力を込めた声も出せないだろう。
もっとも、一頭二頭なら、声力を使う機会も少ないかも知れないが。
<もちろん私も普段は無言の交感が多いのだが・・・>
だが、この「声力」のことは、頭の片隅に入れておいて欲しい。
動物と暮らせば、咄嗟の緊急事態が起こる可能性が潜んでいるのだ。
なおかつ、それが多頭数の場合には、飛躍的に確率が高まるのだ。
そのような事態を想定して、機会を設けて「声力」を鍛錬するといい。
ところで・・・ そこに「念」を込めなければ声力とはならない。
「念」と言うと、怪訝に思われるかも知れないが、「念」は存在する。
簡単に言えば、「強烈な想い」である。
だが、真に「強烈な想い」を発生させることは、なかなかに難しい。
しかも、一瞬の内に発生させなければならないのだ。
だから普段から、それを鍛錬していかねばならないのである。
「念の力」は、想像以上に凄いものである。
私はそれを、実体験の中で実感してきた。
もちろん「念の力」が及ばずに、離れた場所からの鎮静化が困難な場合もある。
だがそれでも、最悪の事態を免れることは可能なのである。
だから諦めずに、どんなときでも、全力で「念」を込めなければならない。
ところで「念」といっても、「邪念」というものもある。
この「邪念」の方が、人間にとっては容易に発生させることができる。
というか、世間は邪念だらけである。邪念発生が得意な人が多いのだろう。
「念」と「邪念」とは、まったく別世界のものである。
どれほど念を込めたと思い込んでも、
そこに僅かでも邪念が混じっていれば、「力」は生まれない。
だから「念の力」を生み出すには、「一心」にならねばならないのだ。
その「一心」になるために、普段から精神統一を鍛錬しておく必要があるのだ。
こう書くと、何やらとても難しく大変な毎日になってしまう・・と思われるかも知れない。
だが、これは「テクニック」の問題ではなく、「心の姿勢」の問題である。
そしてその「姿勢」は、慣れれば自分の自然体となる。
最初は大変かも知れないが、そこを越えれば「自然体」が待っている。
なお今回は「念」についても書いたが、誤解されると困るので一言申し添える。
「念」もまた、全体の中の「ひとつ」に過ぎない。
「念」だけを意識するのでは無く、
「念も含めた全体」であることを、忘れてはならない。
「念」だけに頼ろうとすれば、「念の力」は衰えるのである。
全身全霊で対応していくことが、すなわち「念の力」へと昇華するのである。
付記::
「声力」を真に発揮させるためには、
その声が意義を持っていなければならない。
頓珍漢なタイミングで声を発令しても、相手の胸には届かないのである。
場面の状況とタイミングを正確に把握してこそ、声が意義を持つのである。
そのためには「行動の理由」を知らなければならない。
その犬が、何故にそのような行動をしたか?? ・・・それが重大である。
百頭いれば、その行動の理由は百個ある。
犬それぞれに、それぞれの理由が隠されているのである。
だから当然、その犬の「個性」を見抜かなければならない。
心の個性と身体の個性である。心の傾向性と身体の傾向性である。
心の個性と身体の個性が相関しながら「その犬の個性」を織り成しているのである。
そしてその犬の個性によって、そこに「理由」が生まれるのである。
それを見抜くのである。瞬間に洞察するのである。
それを普段の日常から実践練磨していくのである。
そうすれば、咄嗟の時でも、瞬時に「理由」を知ることができる。
■南無華厳 狼山道院■