■死の種類■
カナダの「アザラシ猟」に対する議論が盛んだ。
どういう猟かと言えば、
氷上の子供のアザラシの頭を、
鉄球の付いた棍棒で叩き、
そのまま「皮を剥ぐ」という猟である。
目的は、「毛皮」のみである。
その棍棒の一撃で絶命しない子も多いらしい。
気絶状態で皮を剥がれる場合も多いようだ。
気絶していると言っても、
皮を剥がされ始めれば、
いくらなんでも目は覚めるだろう。
いったい、どれほどの痛みだろうか??
全世界の誰も想像できないほどの痛みだろう。
もはや痛みというよりも、地獄そのものだろう。
人は簡単に「地獄」という形容を使うが、
そんな「形容の地獄」では無い。
「地獄そのもの」なのである。
あるいは一撃で絶命しなかった子が、
頭を砕かれた状態で、
何時間も「のた打ち回っている」場合も多いらしい。
「のた打ち回る」ということは、「痛い !!!!」ということだ。
あまりの激痛で「のた打ち回る」のである。
なにしろ殺す数が多いから、
次次と頭を打ち砕いていかねばならない。
意識の残る内に早速皮を剥がされる子もいるし、
のた打ち回りながら皮を剥がされる順番を待つ子もいるのである。
これでは「銃殺」の方が、まだ楽な死に方かも知れない。
だが銃殺だと「毛皮に傷が付いて商品価値が落ちるから駄目だ」という。
商品価値??
世間の「嗜好」によって、殺戮の手段が変わるということか??
「嗜好」が要求するなら、地獄の苦痛を与えても赦されるのか??
途轍もなく理解し難い発想である。
人間は殺す側だから、「死」の一言でくくるが、
「死」を一言で片付ける訳にはいかない。
「死ねば一緒」と言う人が多いが、
「死ぬまでの苦しみ」を無視してはならない。
「殺される側」にしてみれば、それは大問題なのである。
大問題どころか、最大の悲願である。
人類には「拷問の歴史」があるが、
拷問を受け続けた最後に「最も残酷な拷問方法」で殺されるとき、
人は「楽に死なせてください !!!」と哀願したという。
「ひと思いに殺される」ことを哀願したという。
そのような極限選択に直面すれば、それが当然の心理であろう。
ところが平和漬けの人びとは、その心境が実感できない。
平和漬けの人びとは、なにしろ「死」が怖いのであって、
死までの苦悶などには想像が及ばない。
なにしろ「死そのもの」だけに関心が集中するのである。
人類史に、なんで「拷問」が存在するのか??
それが「死」よりも辛く苦しいからである。
死は、今生との別れである。
だが拷問は、今生に於いての地獄なのである。
肉体のダメージには「程度」がある。
当然ながら、ダメージが増すごとに痛みが増す。
ところが世間は、この「程度」というものが実感できない。
何もかも「じっぱひとからげ:十把一絡げ」である。
たとえば今の世間では、
頬を軽く平手で張られても「虐待」と騒ぎ立てる。
顔が変形するほどにリンチされても同様に「虐待」で並べられる。
おそらく「程度」には無関心で、
「やった・やらない」だけに関心が集中するのだろう。
だから「虐め問題」も、頓珍漢な分析しかできない。
未だに虐め問題に、何の対応もできない。
今の時代、素手で殴り合う喧嘩など少ないだろう。
同様の力量者同士で素手で殴り合えば、「痛み」というものが分かる。
「痛みの程度」というものも自然と分かるようになる。
だが今はそんな時代ではないようだ。
自分は無傷のままで、ナイフや鉄パイプで相手を「破壊」するのである。
相手のダメージの大きさや痛みの激しさなどは、お構い無しのようである。
子供もそうだし、大人もそうだろう。
生徒もそうだし、教師もそうだろう。
今は世間全体が「痛みの実像」を分からないようである。
そこにある概念は「生存」と「死亡」だけのようである。
死にも種類があることを、まったく分かっていないのである。
そんな世間に、子アザラシの地獄の苦悶など、分からないだろう。
何事も、我が身に置き換えてみれば分かる。
我が身に置き換えてみれば、火を見るよりも明らかとなる。
もし自分が「殺される側」だったとしたら。
それが避けられない事態であったとしたら。
どのような方法で殺されたいか??
死を避けられなかったなら、どのように死にたいか??
痛みも苦しみも無く安らかに死にたいか??
半死の状態で地獄の苦悶を味わいながら死にたいか??
痛覚の起動した状態で生皮を剥がされて死にたいか??
・・・・誰もが「我が身に置き換えて」想像してみるべきである・・・・
もし仮に、その背景にどんな理由があろうとも、
我が身に置き換えてみれば、全世界の誰もが、
「それだけは、どうぞお赦しください!! それだけは!!」 と哀願するだろう。
この「アザラシ猟」に反対する人たちがいる。
その「アザラシ猟反対」に、反対する者が多い。
「反対反対者」の意見を眺めていると、彼らの心境が見えてくる。
彼らはつまり、その惨殺方法を肯定しているのである。
それはつまり、いざとなれば「その行為ができる」ということだろう。
なにしろ、あの無残な惨劇の写真を見ても、「理屈」が先立つ者である。
あの写真を見ても、まず頭に浮かぶのが「反論のネタ」の者である。
あの写真に衝撃を受けるどころか、ネタ探しに忙しい者たちなのである。
一方は「衝撃を受けた者」であり、一方は「ネタ探しに忙しい者」である。
どこに「議論」の可能性があるというのか??
攻撃の機会だけを狙っている者の、どこに議論意識があるというのか??
彼らの言う議論とは、「粉砕の場」なのである。
動物の心を知るためには、「感性」が第一条件である。
なぜなら動物たちが、感性の世界に棲んでいるからだ。
研ぎ澄まされた感性による感応が、
動物との交感対話を可能にするのである。
そこには「理屈」など通用しない。
理屈が先立ち理屈に終始する人間には、
動物たちの心など、微塵も理解できないだろう。
その「理解できない者たち」は、
当然のことながら、動物の心を無視できるのである。
<彼らは、動物の心を否定することが「科学的」だと錯覚している>
<真相を信じることができずに、科学万能を妄信するのである>
<科学が「手段のひとつ」に過ぎないことを知らずに>
近代科学思想に甚大な影響を与えた人物に「デカルト」がいる。
子犬から育てた自身の飼犬をテーブルに縛り、
「麻酔無し !!!」で生体解剖した「デカルト」である。
あの「動物機械論 !!!」の主たる提唱者であり、その世界の教祖である。
未だに現代に於いても、この学者の思想が色濃く反映されているようである。
だがこの思想は、はっきりと未熟を露呈している。
たとえば自然科学に於ける「動物学」の有能な学者は、
旧来の学問思想の限界と誤りを覚り始めているらしい。
これまでの動物学は、
「動物には感情も心も無い」ことを前提としてきたが、
その視座では限界に突き当たることに気付き始めたようである。
だが日本は、まだまだ「気付き」に遅れているようだ。
動物機械論の影が色濃く残っているようである。
<そもそもそれは、「人間の思考」によって生まれた思想である>
<個人が思考に思考を重ね、思考に塗り潰された思想を生み出したのだ>
動物や自然界を徹底して「物」と見なし、
「徹底して利用し尽くす」という近代科学思想では、
動物の実像や自然界の真相など、何ひとつ分からないだろう。
だが世間は、「学術権威」に非常に弱い。
だから自然科学者の意見などに簡単にひれ伏す。
学者の言うことだから間違いは無いと思い込む。
世間はこぞって「学術讃歌」なのである。
インターネットにも、自然科学者とか学生の記事が多い。
読めばありありと、デカルト思想の匂いを感じられる。
おそらく学生たちも、洗脳されているのであろう。
そして動物擁護に反対する反対者たちは、
ネット上のそういった学者記事を参考にして「武器」とするようだ。
ネット上にはいくらでも「武器とする参考記事」があるのだ。
だが前述したように、それはもはや旧思想であり、旧学問なのである。
今や世界の最先端動物学は、
「心の世界」に踏み込もうとしているのである。
もはやそれが「否定」できないものだと知り、
「動物の心」を認め始めてきたのである。
だがそれが、「最も至難な領域」であることを、彼らは知っている。
そこにどうやって踏み込んでいくかも、分からないでいる。
つまり全くの手探り状態ではあるけれど、
しかし「心の領域」に目覚めたことは実に素晴らしい。
だが日本ではどうか??
未だに旧意識のままであり、
世間もその旧意識の学者の言葉を鵜呑みにしているのである。
「動物擁護反対派」は、
人間中心主義である旧来の自然科学思想と結託し、
その科学的理屈を参考に理論武装する。
旧意識の学者と学生と反対派が連合して世間を扇動し、
執拗な攻撃で動物擁護派を粉砕するのである。
哀しいかな、世間は「理屈」に惑わされてしまうのである。
<動物に対して行なってきたように、人人は擁護者をも迫害するのである>
人間が一番偉い・・・なぜ??
人間の御都合が絶対優先・・・なぜ??
その特権意識は、いったいどこから生まれたというのか??
その意識こそが地球を追い込んできたというのに。
それなのに世間はまだ悠長に構えている。
日日の快適を味わうことに忙しいのか??
その快適が永劫に続くと思っているのか??
昔、自然科学者は、動物に感情すら無いと信じていた。
感情すらなく、もちろん「痛覚」さえも無いと信じていた。
だから麻酔無しの生体解剖も大量に行なった。
動物が激しく痛みを訴えても、
「物」である動物が痛がるはずが無いと信じ込んでいた。
これは本当の話である。
彼らは本気で、そう思っていたのである。
怖ろしい話である。信じ難い話である。
だが現代でさえ、それに近い科学者が多いらしいのだ。
彼らは完全に洗脳されている。
まことに怖ろしい「思想」に。
彼らは、動物の尊厳を擁護する人間が大嫌いである。
大嫌いであるから、膨大な理屈を投じて、擁護派を攻撃する。
本来科学とは、
新たな事実に気付けば、それを受容して新たな領域に入る。
本来は、そのように大きな度量を持っているのである。
だがその本来の姿に反して、旧来思想に囚われ続ける学者も多い。
まさに洗脳されているのである。
「動物たちの心の世界」に踏み込むには、旧来の理屈が通用しない。
だから科学は、いよいよ自らの新たな形を探さねばならない。
それは困難な道だろうが、新たな世界のために、挑まねばならない。
だが旧来思想に支配された学者は、それを拒んでいる。
≪御参考:御検索≫
sora.ne.jp/seal/rebecca.htm
■共同通信PRワイヤー アザラシ猟■
<EUのアザラシ製品取引禁止を賞賛>
<アザラシ猟の映像を公開>
≪南無華厳 狼山道院≫